昨日は、ある青年の葬儀でした。彼の41年間の生涯のうち、37年間は遺伝性の病との闘いでした。「闘い」というのは、健常者から見た表現かもしれません。「闘い」は、いつか終わります。しかし、進行性筋ジストロフィーのとの「闘い」は終わりをしりません。「闘い」の終わりは、死しかないのです。
それは「闘い」ではなくて、「定め」なのかもしれません。
進行性筋ジストロフィーは、筋肉が徐々に萎縮して筋力が低下し、さまざまな障害を併発する遺伝性の病です。根本的な治療法は、まだ発見されていません。幼少期より発病し、車椅子生活となるひとが多く、昔は20才前後で心不全や呼吸不全のために死亡するといわれていました。最近では人工呼吸器などの医療技術の進歩で5年から10年は寿命が延びているそうです。
彼が41才まで頑張ってこられたのは、奇跡といえるかもしれません。その奇跡は、ご両親、ご兄妹、ご親戚の献身的な協力なくしてありえませんでした。彼の生涯のほとんどは、車椅子とベッドの往復、入退院の繰り返しです。ご家族の愛情がなければ、生き続けることはできなかったのです。
病院からご自宅に安置された彼の側で、ご家族とご親戚の方と生前の彼のことをうかがいました。予想に反して?、みなさんは生前の彼の思い出を明るく話してくださいました。
「この写真、みんなで温泉にいったときのものですよ」とお母様が見せてくれた。ご家族とご親戚のみなさんに囲まれた彼がいた。「女性陣で彼をかかえて、温泉にいっしょに入ったの。オッパイが見えちゃうよと、恥ずかしがりながらはしゃいでいたわよね」と叔母様。お母様がうなづきながら涙する。
「これは東京ドームのホテルにみんなで泊まったときの写真なの。そのとき見ず知らずのスポーツ関係の社長さんが声をかけてくださって、それからいろいろ面倒をみてくださったんです」とお母様。「彼は、すぐにいろいろな人とフレンドリーになれる才能があったの」と彼のお姉様。
その社長さんは、アスリートジャパンの社長で、通夜のときにはジャイアンツの辻内投手とファイターズの大谷選手のサイン入りボールを供えてくれました。「ずっと気になって、心配していたんだけど。悲しくて辛いね」と社長。
彼の最後は、経鼻胃管(けいびいかん/鼻の孔から胃まで通すチューブ)による栄養液と人工呼吸器で命をつないでいました。その治療方法も自分で勉強し、自分でその処置を先生にお願いしたそうです。
まだ食べる力はありましたが、病院の食事では、患者5〜6人に対して1人の看護師さんが、それぞれの患者さんの口に順番に少しずつ食物を入れていくそうで、「おれは小鳥じゃない!」と自尊心が傷つけられたのか、彼は自ら経鼻胃管を選択したそうです。
それ以来、彼は家族を食事に誘うと「ぼくのことは遠慮しないで、好きなものを食べて。ぼくには匂いだけちょうだい」と平気で、テレビも料理番組をよく見ていたそうです。この話を聞いたとき、わたしはショックを受けました。人間にとって食欲は、一番の欲望と思っていましたから。
匂いや味の思い出で食欲を満たすことはできないはずです。「経鼻胃管の不快感は慣れます。もっと他にひどい傷みがありますから」と語っていた患者さんがいたのを思い出しましたが、にわかに信じることはできませんでした。
柩に入れる副葬品として、英会話の本が用意されていました。「入院中に英会話を学びたいと自分でネットで探して、英会話教室をみつけていたんです。月に何回か、英会話の先生が病院に来てくれたことがあります」とお母様。
しかし彼はそれでは満足できなかったようで「彼は美人さんが好きで、フェイスブックで素敵な人と友だちになって、英会話の先生をしてくれませんかと頼んだりしていたんです。そしたら本当に美人さんが、病室にこられて『病人だからといって甘やかしたりしませんよ』と引き受けてくれたんです」とお姉様。
彼のブログを読むと「アメリカにいってみたい」と書かれていました。
通夜にも葬儀にも、電動車椅子の弔問客がこられた。焼香台のまえで付添いの人が、彼女にお焼香をさせようと、抹香(まっこう)の入った皿を手元によせるが、うまくつかめない。指先にくっついたわずかな抹香をゆっくりと振りほどくようにして香炉にくゆらす。かすかに煙が揺らぐ。その煙を追って手をあわせようとするが叶わない。彼女は、静かに深く目を閉じる。その瞬間、時間(とき)が止まったように思えた。
一連の彼女のしぐさが、この空間を神聖なものに変えてしまった。
彼は、いくつかのブログを開設していましが、その一つのタイトルに「神様がせっかくくれた病気だから楽しまなきゃ」があります。しかし、ブログでは楽しんでいるようすは、あまりうかがえません。病を受けとめ、のり越えようとしているようです。どのようにしてか、彼の方法は、耐えるのではなく、希望をもつことです。
ただし、病から逃れることはできません。そこに希望を見いだそうとはしていません。定めは定めとして受けとめ、定めのなかで希望を見いだし、それを実現しようと積極的にチャレンジしています。
英会話だけではありません。おなじ病院に入院していた絵の先生と友だちになり絵も習っていたようで、絵具の調合はお母様がされていたようですが、額縁にかざられた素敵な作品が残されています。また、大好きだった歌手の宇多田ヒカルさんやグローブなどのオッカケもやっていたようで、コンサート会場まで彼を運ぶご家族のご苦労が目に浮かびます。
もちろんフェイスブックやブログなどネットを利用して、情報発信し、友だちと交流していました。健常者とちがい、口でマウスをクリックしながら、一文字一文字を打つのですから、大変な作業だったでしょう。
「彼はおしゃべりで、人と話すことが大好きで、それを大切にしていました。だから人工呼吸器も、まだ必要なかったのですが、あわてて手術になると声帯を傷つけ、しゃべれなくなるのを心配して、彼の意思で前もって声帯を痛めないところに施したんです」とお姉様。
経鼻胃管といい、彼は「肉を切らせて骨を絶つ」ではありませんが、夢や希望にむかって犠牲を惜しまない強い意志があります。苛酷な定めに負けることなく、人間として生きるために夢や希望に果敢にチャレンジしていたのではないでしょうか。
筋ジストロフィーという定めに生きていたのは、彼だけではありません。家族も同様です。むしろ彼の母親は、彼以上にこの定めの犠牲者だったのかもしれません。筋ジストロフィーを発病させる遺伝子は、母親から彼に遺伝されるのですから、お母様の苦悶を計り知ることはできません。
ところが、彼を含めてご家族はとても明るく笑いの絶えないご家族だったようです。もちろん親子でけんかもよくされたそうですが、それは普通の家族だったということです。しかし、重い病をかかえた暗い雰囲気は微塵もありませんでした。なぜでしょう。
41年間の生涯は、家族の愛情につつまれた一生でした。彼の努力もさることながら、家族の献身的な愛情なくして彼は人間らしく生きていくことはできませんでした。母親の愛を一身にうけてきたのです。彼はだれよりも幸せだったのだと思います。
絆と束縛は、コインの表と裏の関係です。わたしたち世代は、束縛を嫌い自由を求めて、地方から都会へ移り住んできました。人間関係の希薄な都会では、自由を謳歌することはできましたが、いざというときに無償で助けてくれる絆も希薄になっていました。
彼は、親子や兄妹や親族の強い絆のなかで生きてきました。自然にあふれる家族の愛情のもとでは、束縛は人生のスパイスになっていたのではないかと思います。味会い深い人生を彼と家族が共有していたとするならば、筋ジストロフィーを発病させる遺伝子のいたずらは、もしかすると欲望のままに生きる人類の習性をその滅亡から救うためにあらかじめ用意された救世主の遺伝子かもしれません。
そんな思いをさせる、彼の葬儀でした。
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くに (土曜日, 22 11月 2014 20:21)
短い期間でしたが、お逢いできて光栄です。
昌子 (水曜日, 02 10月 2019 21:33)
今32歳の息子が同じ病気と闘っています
入退院の繰り返しですが何とか頑張っています
愛海 (日曜日, 12 1月 2020 23:39)
今年成人式を迎えました。何度が苦しそうにこらえんばかりに泣く事もありましたが、泣いた後は何もなかったようにいつもの常に前向きな顔を見せてくれています。息子はとても男らしくよく物事考えてるなっと思います。苦労した人は本当に素晴らしい感情や考え方を持ってます