家族葬ネットが立ち上がったのは、2002年からです。今年で12年目を迎えます。去年あたりから、同じご家族で三回目の葬儀をご依頼されるようになりました。今回のケースも、2006年に中学生の息子さんを亡くされ、最初の葬儀をお受けしました。このときの様子は、家族葬の風「亡くなった息子は試合会場にいた?」に載っています。次は2012年に今度は奥様のお父様の葬儀をお受けし、続いて今年になってご自身のお父様の葬儀を行うことになりました。
三度も弊社にお声をかけていただくことは大変ありがたいことですが、四度目が遠い先の話であることを願うばかりです。まあ、こちらが先に逝ってしまう公算が強いのですが。
■さて亡くなられたのは、87歳の男性。奥様の話だと「私のことは気に入ってくれていたかどうかは知りませんが、美男子で本当にやさしい人でした。」と惚気られた。当のご本人は、奥様を置いて、暇さえあればゴルフに出かけていたようです。ただ、家のことをはじめ、何から何まで、奥様の手をわずらせることなく、面倒をみるタイプだったようで、飾られていた絵画の趣味からも几帳面さを感じとることができました。
そんな掛替えのないご主人が、数年前に食道がんを患い、40日間ほどの放射線治療を受けたそうです。幸いにもがんは、完治したそうですが、放射線治療の副作用として、腹水が溜まるようになり、その治療のため最近入院していたそうです。
本人はいたって元気で食道がんも完治し、100歳まで生きるといっていたそうです。入院して腹水を抜く一回目の治療はうまくいきましたが、二回目の治療の後「今回は調子良くないな」ともらしていたそうです。それでも大好きな蕎麦を口にしていましたから、奥様も安心されていたようです。しかし、翌日事態は急変し、帰らぬ人になってしまいました。
■ご主人は、退院したら「知覧」に行きたいと言っていたそうです。「知覧」は鹿児島県南九州市にある太平洋戦争時に特攻隊の基地があったところです。ご主人は、当時そこで戦闘機の整備士をされていました。現在はそこに「知覧特攻平和会館」が建てられ、特攻に使われていた戦闘機「疾風(はやて)」や「隼(はやぶさ)」が展示されています。
青春時代の思い出がいっぱい詰まっていることでしょう。ご主人は、若くして尊い命を失った戦友たちのご冥福を祈って、手を合わせたかったのではないでしょうか。そして「いずれ俺もそっちに往くから待ってろよ」と声をかけたかったのかもしれません。知覧特攻平和会館のホームページはこちらから。
■しかし、「いずれ」「そのうち」とはいっても「急死」するとは、だれも思わぬものです。本人もご家族もまさか急に亡くなるとは思っていません。100歳まで生きる予定でしたから。奥様は元気なうちに葬儀の相談をしようとしたそうですが、「縁起でもない」と断られたそうです。
平成22年の厚生労働省の調査によると死亡者数1,197,066人のうち、65歳以上の死亡者が85%を占めています。65歳は人生の折り返し地点と考えて良いのかもしれません。死の覚悟と準備を密かに始める時期であり、同時にその上に立って、今後どう生きるか、再考するチャンスにしたいものです。また、さまざまな懸案事項を一つ一つ解決していくために腰を上げるときです。
■予期せぬご主人の急死に奥様は、ただ呆然とするばかりです。何も手に着かないといいます。葬儀が終わるまでは、何も考えないようにと思っていましたが、色々なことが脳裏をよぎり、かといって整理もつかない日々が続きます。
そうは云っても葬儀の準備を進めなければなりません。会葬者は何人位になるか、奥様はわからないといいます。ご長男と親戚の方に尋ねると親族を入れて55名ぐらいだといいます。しかし、通夜・告別式を合わせて香典をご持参された方だけでも150名を越えました。
■大勢の会葬者のみなさまがみえられたのに、奥様は寂しそうでした。両肩が落ち、しなだれていました。ご長男は、お母様をささえながら、会葬者に気を配っていました。通夜が終わり、奥様と息子さん二人が斎場に泊まられました。翌朝、奥様に「眠れましたか?」と尋ねると、あきらめ顔で頭を横に振ります。
出棺のまえに柩のなかへ奇麗なお花をかざりました。柩のふたを閉める前に奥様はご主人の顔を覗き込み、小声で「さようなら」というと目頭を押さえて、うなだれました。ご長男の目には大粒の涙、お母様の代わりに喪主の挨拶「未だに信じられません」と嗚咽する。
奥様がご遺影を抱え、火葬炉に向かう。確かに男前だ。それだけにしばらくは、寂しさがつのるだろう。
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