◆ 一ヶ月ほど前に相談があり、ご自宅に伺った。ご主人のお母様の葬儀についての相談だった。
◆ 病院の先生からは、いつあっておかしくない危険水域にあると告げられていたようだ。しかし、お母様は気丈にもご自分の葬儀について、息子夫婦に伝えていた。「お坊さんを呼ぶ必要はない。葬儀などする必要はない。家族だけで看取ってくれればいい」と。
相談の内容は、主に
Q: 母の意思にしたがい、一般の葬儀はしないで家族だけで送りたいが、お坊さんを呼ばなくてもいいものなのか?
というもので、その根拠を整理されたかったようだ。
むずかしい相談だが、迷う気持もわかる。正直だとおもう。「お坊さんを呼ばなくてもいいか」、無宗教の葬儀でもいいか、これは日本の葬儀、葬送の習俗にかかわる問題だ。
◆ お坊さんを呼ぶかどうかは信仰の問題なので、仏教を信仰していれば呼べばいいし、信仰していなければ呼ぶ必要はない、と割り切るのは原理的だ。
しかし、仏教葬儀は信仰を超えて習俗になっているから厄介なのだ。
正月には神社にお参りにでかけお賽銭を投げ入れる、クリスマス(イエス聖誕祭)にはケーキをほおばり、葬儀にはお坊さんを呼んで戒名をつけてもらう。
これは信仰ではなく、習俗なのだ。その所属する共同体のしきたりなのだ。
◆ しかし、これらの習俗も最近ではあやうくなっている。価値観の多様化もあるだろうが、習俗を支えてきた共同体、地域のコミュニティーが崩壊し、その疑似物であった終身雇用制も、アメリカナイズされた成果(能力)主義に取って代わり、会社への帰属(共同体)意識は競争意識へ変貌し、リストラの波にあおられている。そしてなにより、親族関係は希薄になり、家族制度がゆらいでいる。
習俗の持続力と強制力をになってきた共同体が、確実に崩壊しつつある。
◆ つまり、習俗にしたがう拘束力はなくなっている。自由なのだ。もう地域の人の目を気にする必要はない。葬式でしか会わない親戚の目を気にする必要はない。家族だけの葬儀に、日ごろ挨拶もしたことのないお坊さんをわざわざ呼ぶ必要があるのだろうか。自由じゃないか。
しかし喜んでばかりはいられない。これは勝ち取った自由ではない。見放された自由、不安な自由だ。いったい、これからの葬送はどうあるべきなのか。
「お坊さんを呼ばなくても大丈夫なのか」の問は、これからの葬送を問う問題だ。
◆ さて、お釈迦様(釈尊)の仏教では、お坊さんは葬儀には参加しない。お坊さんが葬儀をになうのは、日本独特の風習だ。これは、庶民救済を旗印とする日本仏教の特質でもあるが、なにより江戸時代になって徳川幕府がキリシタン弾圧のためにはじめた「寺請け制(度)」によって全国に定着した。庶民は全員、お寺の檀家にならなくてはいけない。葬儀、法要もお寺に一任した。
こうして、「葬式仏教」の習俗が確立してきた。
◆ 葬儀は、その人の生死の尊厳に向き合い、その尊厳を共有する場だ。そして、その家族(共同体)の死生観にそって霊魂の救済を願う鎮魂の場だ。この共有感と鎮魂が遺族の喪失感と不安を少しでも和らいでくれる。
葬式仏教は、尊厳を共有し、その証として故人を仏様として尊び、救済の道を示したからこそ、庶民に受け入れられてきたのだろう。
その尊厳をまえに「お布施はいくら」、「いい戒名はいくら」と救済も金しだいとなれば、興ざめしてしまう。宗教がビジネス化すれば、まさにその尊厳はなくなる。しかし、ビジネス化しなければ、お寺の経営はなりたたないのも理解できる。そうして興ざめした庶民は、一人二人と葬式仏教から脱落していく。
心をこめて務めてくださるお坊さんも知っている。しかし、これは、お坊さん個人の資質の問題ではない、お坊さんを紹介する我々葬儀社の問題でもあり、いい戒名をお金で買おうとする遺族側の問題でもあるが、なにより教団、仏教界が統一して結論をださなければ解決しない問題だ。
戒名(法名)は本来、二文字だ。真宗系の「釋」号や日蓮系の「日」号などを除けば、あとの「院・殿」号や道号、「居士」等位号などの文字は修飾文字にすぎない。謚号と呼んで良いだろう。おくり名だ。故人を讃えて一方的におくる名前だ。お布施(戒名料)の違いによって、その修飾文字が違うという習慣は、俗世の格差を来世に持ち込むということだ。尊厳を金銭に換えようというものだろう。
◆ そんな葬儀談義を交わしながら、お母様の葬儀は故人の遺志を尊重して無宗教でおこなうことになった。
◆ 通夜のとき、お坊さんを呼ばなかった理由も含めて、今回の葬儀の意義についてお話しをした。
◆ 通夜の最後に、二つのお願いをした。一つは、お母様が嗜まれていた俳句に応えて、みんなでお母様に俳句を一句献上すること。もう一つは、戒名のかわりにお母様に「贈り名」をプレゼントすること。
◆ 「贈り名」はあまり聞き慣れない言葉かも知れない。
先日、歌手の森進一さんと「おふくろさん」でもめていた作詞家の川内広範さんが逝去され、無宗教の密葬で送られたそうだ。後日、ご家族が「生涯助っ人」という戒名を付けられたと報道があった。戒名の意味からすると「生涯助っ人」は戒名ではない。記者も戒名には疎いようだ。
これは「諡(おくりな・贈り名)」という。故人の生前の功績を讃えて、死後におくる名前だ。「聖徳太子」も贈り名。生前の本名は「厩戸(うまやど)」で日本書紀には「厩戸皇子」と記されている。
川内広範のご家族は、家族会議を開いて、故人を偲び川内氏の自伝書のタイトルでもあった「生涯助っ人」を贈り名にしたのだろう。
この「贈り名」は、ご家族が故人の生前を偲び、生き様や功績を讃え、故人の尊厳に応える葬送のあり方を示している。おそらく川内広範氏の功績はこの贈り名「生涯助っ人」を通して子々孫々に伝えられるだろう。しかも無料だ。
◆ 翌日、ご自宅に伺うと開口一番、「宿題のために夜遅くまで家族でなやみました」とニコニコしながら喪主さまにいわれた。
お母様の贈り名は「飛翔慈母」と命名された。
お母様は大正生まれだが、ご主人を亡くされてから、経済に明るかったこともあり、こつこつと貯めたお金で株をやったりした。また、いろいろな仕事で蓄えたお金で、子供に迷惑をかけないよう自分一人で住む家を子供に相談することなく買ったそうだ。老後は、一人でアメリカやヨーロッパに遊びに行ったり、本当に飛んでいるお母様のようだった。そして、いつでもお子さんのことを気遣い、温かく見守っていてくれたそうだ。
そこで「飛翔慈母」の名前が生まれた。いい名前だ。他人の私にも、お母様の生き様と人柄が伝わってくる。
◆ この「贈り名」の意義は、これから益々重要になってくると思う。