◆ 梟(フクロウ)は、知恵袋で、学問の神様だとか「森の守り神」として知性の象徴と考えられたり、ギリシャ神話では「学問、芸術の女神アテネの聖鳥」として有名だ。日本では「福籠」「不苦労」「富来労」などのような漢字を当て、幸福の鳥としてファンやコレクターも多いようだ。
◆ 故人も熱心なコレクターであり、研究家だった。梟のコレクションに囲まれた部屋で静かに眠っている顔をじっと見ていると、なんとなく梟に見えてくるから不思議だ。知的な顔立ちがそう思わせるのだろうか。
◆ 生前から、形式的な葬儀は望まないと語っていたそうで、無宗教というより、あまり体裁を気にしないで近しい人だけでお別れをする自由な葬儀を思考されていたようだ。
◆ 式場には、宗教的な祭壇は一切作らなかった。真ん中に柩がおかれ、その回りはきれいな花で埋め尽くされていた。そして、その柩を取り囲むように梟のコレクションや本が飾られた。故人はしずかに眠っていた。
◆ 通夜/姪御さんから闘病生活での会話が報告された。その中で人間の死について、故人の考えが紹介された。「肉体は滅んでも、それまでの人生で勝ち得てきた知識の蓄積は、他の人の意識に残り伝わっていく」と。
その話を聞いていて、輪廻転生のことを思い浮かべた。輪廻の原動力は、業・因果応報だが、輪廻の主体は何なのか、お釈迦様も明確には答えていない。仏教では、輪廻の仕組みやその原動力である業・因果応報の特質が説かれる。因果応報の原則は「自業自得」だ。一般的には「悪因悪果」で使われることが多いが、「善因善果」でもある。「他業自得」あるいは「自業他得」はない。決して「親の因果は子に」移らない。
「自業自得」は、自分の人生は自分で責任を負うということだ。故人が「肉体は滅んでも、それまでの人生で勝ち得てきた知識の蓄積は、他の人の意識に残り伝わっていく」と言い切れるのは、故人がご自分の人生に責任を持って生きてこられたからだろう。でなければ、自分の生き様が他人の意識に転生されるなどと、とても怖くて自信を持って言い切れない。
そんな話を奥様にしたら「主人は思ったことは完璧に成し遂げてきました」と穏やかな笑顔で応えられた。
アメージング・グレイスが流れるなか、献花がたむけられた。
奥様がゆっくりと祈っている。穏やかな時間がながれる。ご遺影が、眼を細めてながめている。柩の横に飾られた大きな絵の梟が凛として、神聖な時間を造っている。目を潤ませた姪御さん達が印象的だった。
◆ 告別式/最後のお別れに、柩の回りのきれいな花が参列者全員の手で柩の中へとたむけられた。奥様は、梟のコレクションと二冊の本を添えられた。一冊は、故人の梟の著書。もう一冊は、読みかけの本だった。「まだ読んでいなかった本なんです。入れてもいいですか」と奥様。「もちろんですよ。見えるところにおきましょう」と故人の胸の上に供えた。
◆ 宗教的な儀式は何もない葬儀だったが、哀悼の気持が伝わってくる葬儀だった。故人も遺された奥様もご遺族も、宗教的なきっかけを要しなくても充分にお別れができる知的な生活環境におかれているのだろう。
◆ あまり多くを語らない物静かな奥様だったが、「お親戚の皆さんからも、良い葬儀でしたねと納得してもらいました。」との言葉をいただいた。
◆ 春一番が吹いた。梟は何も語らず、飛び立った。