◆ 下町でご商売を営まれているお宅から、葬儀の依頼があった。高齢のお母様の葬儀だ。お父様はすでに他界されていた。
下町で商売をされているのだから、葬儀の依頼は地元の葬儀社に依頼するところだろうが、お父様を亡くされたとき、色々といやな思いをされたようで、家族葬ネットへ連絡があった。
◆ お父様の時は、仏式の葬儀だったが、今回は無宗教で葬儀をおこなうことになった。下町で、しかも親戚の方も地元でご商売をされているようなので、無宗教の葬儀には抵抗感があるのではないかと一抹の不安を覚えた。しかし、喪主のご主人も奥さまも、そして二人の娘さん(孫)たちも無宗教を望まれた。
反仏教ではないし、ご自宅にはお仏壇もある。でも、前回いやな思いをされた影響が強いようだ。
◆ 通夜式・無宗教/ お坊さんの読経が無い代わりに、みなさんで「般若心経」を読経した。「般若心経」は日本人にはポピュラーなお経だし、日本に伝来した仏教(大乗仏教)の教えをコンパクトにまとめたお経なので、意味が深い割には、親しみやすい。
◆ お焼香のあとに、二人の娘(故人からはお孫さん)さんから、貴重な祖母の思い出が語られた。チョット長いが、引用してみよう。
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「 昭和20年3月9日、空襲警報が発令した。この日、祖父(すでに他界)は地域集会にでかけていた。
この当時の祖父は背が低く、兵役の規定に満たなかったため赤紙(強制徴兵の通告書)はまわってこなかった。その代わりに消防団の団長をつとめていたのだ。そのため、何かあった際は地域住民の安全のためにかりだされていたという。
一方、祖母(故人)は空襲警報で、当時7歳の長女と5歳の次女、そしてまだ生まれて間もない三女を背負って、祖父から何かあったら逃げるように指示されていた新堀(しんぼり)小学校(現:台東中学校)の防空壕へと急いだ。
新堀小学校は、当時ではめずらしい鉄筋コンクリートの建物であり、前の空襲で全員助かったとの情報から、この防空壕を希望する者が殺到した。また家財道具などを持ち込む人々がいたために防空壕はすぐに埋まってしまった。そのため、祖母たちはこの防空壕に入ることができず外へでた。
防空壕の外はまるで真昼のように明るかったという。焼夷弾が次々に投下され、火に追われ追われ逃げた。7歳の長女のおばさんは、祖母や次女のおばさんの火の粉を消しながら、後について回った。蔵前、浅草橋の方面へ向かっていた。
するとそこに扉のはずれた大きな金庫があったという。この場所には銀行があったのだろうか。または空襲を警戒して、地元住人が逃げにくい建物を壊し空き地にしていたのかもしれない。
祖母たちは、その物陰に身を潜めることにした。しばらくするとアメリカ軍の飛行機が、祖母たちの近くに低空飛行しながら近づいてきた。祖母は震え上がったという。しかし見つからないように身を潜める以外に手段はなかった。
そのとき祖母は、飛行機のパイロットの顔をはっきりと見たという。まるでニヤリと笑っていたかのようであったと生前に語っていた。
何はともあれ、祖母たち全員は奇跡的に大きな怪我もなく、この空襲を乗り切った。
あくる日、小島町小学校へ避難したときは周りの人からかなり驚かれ、中には無事だった姿に涙する人さえいたという。
このとき、祖母はほとんど何も持っていなかったが、唯一持っていたものがクシであった。同じように避難していた人々にクシを貸してあげるととても喜んでいたそうだ。
他方、逃げ切れた祖父は空襲が明けた朝、新堀小学校の防空壕にいた者は全員死んだと聞かされた。防空壕内に火がまわり、逃げだそうとした人々が入口に集中、しかし家財道具なども災いしてか火のまわるスピードには勝てなかったという。祖父はその事実を聞いた瞬間、祖母たちは皆死んだと思ったという。そして祖父の親戚のいる千葉県の下総中山に出向き、「みんな死んでしまった」と告げた。
ところが、空襲から四日後に、祖母たちはみんな元気にその中山の疎開先へ現れた。奇跡的な生還に驚いたことだろう。
8月15日終戦。一年後、祖父母の間には、四女が誕生し、三年後には長男(父)が誕生する。このとき祖父母が生きていなければ、私たちも含めて、この場にいなかった参列者も大勢いるはずだ。」
◆ お孫さんたちが、おばあちゃんたちの話を聞きながら、まとめたそうだ。下町には、子々孫々伝えられる歴史があると思った。
◆ 通夜式のあと、お清めの席では、親戚一同で空襲体験談に花が咲いたようだ。
◆ 告別式、火葬・収骨も終わり、地元でご親戚が経営されている料理屋で精進落とし席が設けられた。久しぶりに会う親戚一同、それぞれの自己紹介や親戚の紹介などにこやかな席になった。私たちも招待され、お相伴にあずかった。