家族葬の風「さようなら、おかあさん」

◆ 長女の娘さんは、お母さんの看病のために一年前から仕事を辞めていた。次女の娘さんも学校の合間を見て看病をしていた。かわいい二人の娘さんは、まだ若いお母さんの最期を看取る。葬儀は、この二人の娘さんが、心からお母さんを送る協同作業になった。

◆ それは、喉の異物感から始まった。お母さんは、2004年の2月に肺に腫瘍が発見され、3月に胸腺ガンと告知された。その時、治療しなければ、余命三ヶ月と主治医からいわれる。お母さんも娘さん達も最もショックを受けた瞬間だった。
 それから、お母さんと娘達の闘いが始まった。

◆ お母さんの好きな口癖は「運命は自分で切り開く」だった。そして、いつもおしゃれだった。誰とでも友達になれ、みんなを励ましていた。意思は強かったが、家族と楽しく過ごすこと、明るく生きることを何よりも大切にしていた。

◆ ご自宅に運ばれてきたご遺体に娘さん達がきれいに化粧をしていた。お母さんは、葬儀は無宗教で行ってほしいと娘さん達に伝えていた。

長女: 母は無宗教の葬儀を望んでいたのですが、母の姉妹はある宗教の信者でお経をあげたいといっています。無宗教の葬儀ってどのようにすれば、いいのでしょう。

A: 無宗教の葬儀は、決まった形式にこだわらない葬儀と考えてください。一番大切なことは、お母さんの遺志を尊重すること、次に娘さん達の要望、そして葬儀に参加してくださる皆さんが良い葬儀だったと思ってくださる内容にすることですね。形式にこだわる必要はありませんから、お経を読んでくださるのなら、送る言葉の代わりに伯母さん達に読んでもらってはどうでしょうか。

◆ 祭壇には、お母さんが好きだったフリージアの花があしらわれた。献花もフリージアにした。花いっぱいの祭壇になった。祭壇の前には、お母さんが好きだった果物やぬいぐるみ、そしてお人形が飾られた。

◆ 通夜式/ 司会者の言葉の後に、お母さんが好きだった平井堅の音楽をBGMに、それぞれの想いを綴った短冊とフリージアの花が柩に献花された。
 続いて伯母さん達から読経が送られた。そして、娘さん達が綴ったお母さんの闘病生活が朗読された。

● 次女が読み上げる。
「告知されて一ヶ月後、入院した6人部屋で同じように病と闘う友人ができた。病室の誰かが落ち込み、誰かが涙を流す夜や母が抗ガン剤で辛い日々も、病室の友人らとはげましあい、慰め合った。本当に母は前向きに明るい闘病生活を送っていた。」
 「入退院の合間には、原宿や代官山などをまわり、洋服や下着などを買い物した。おしゃれを忘れない母だった。」
 「その後、入退院をくり返し、抗ガン剤を打つ生活。11月、自宅にて痙攣発作、緊急入院」
 「ピンポイントの放射線治療も、あまりのつらさに途中断念する。12月もう一度、放射線治療に挑戦、平井堅の曲を聴きながら」
「その後、点滴とモルヒネ投与の日々をくり返し、4月にホスピスへ。母の好きな曲と家族に囲まれてゆっくりとした時間を過ごす。そして、痛みや発作に苦しむことなく、永眠しました」
 「私たちにとっては、最高の母でした。少し亡くなるのが早すぎましたが、最期に家族といっしょに過ごせたのが、何よりもの幸せでした」

◆ 参列した親戚の方々ばかりではなく、私たちスタッフも皆涙ぐんでいた。今日の葬儀に関わった人たちの心が全員一つになっていた。

◆ この葬儀の主役は、お母さんだった。最初から最後まで、お母さんが主役だった。あの娘さん達が、裏方に回って、お母さんを引き立てた。良い姉妹だ。お母さんの事を、お母さんの闘いをみんなに知ってほしいという願いが、みんなに伝わった。

◆ 娘さん達は、悲しくも凛とした表情をしていた。きっと心の中で誓ったにちがいない。「さよなら、素敵なおかあさん。わたしたちは、お母さんの分まで、お母さんのように明るく力強く生きていきます」と。


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