◆ 一月の半ば頃に電話があった。
Q: 去年、そちらの葬儀に参加した者ですが、父の様態が悪いので万が一の時にはお願いします。
◆ 二月になって、お父さまが亡くなられた知らせがあり、病院に駆けつけた。
◆ Q: 実は、父をはじめ私たち家族は昨年にそちらの葬儀に参加していまして、その時父がこんな葬儀をしてほしいといっていたものですから、お電話したんです。おそらく参加者もその時と同じメンバーになると思います。その時の喪主さんも親戚で、その家族からも勧められましたので。
だんだんと思い出してきた。職人さんのご家族で喪主の奥さまも気っ風のいい方だった。
◆ 葬儀は、大田区に新しく出来た臨海斎場でおこなわれた。
◆ 亡くなられたお父さまは、ご年輩の方だったが、その死に顔が印象的だった。ニコニコと静かに寝ていらっしゃった。本当にいい笑顔だ。変な話だが、一般的に死に顔というのは死に顔であたりまえですが、死相というか、寝顔の延長ではない。ただ中には、まだ生きているんじゃないかと思われるような寝顔をしている仏さまもいる。また、微かに微笑んでいるような仏様もいる。だが、そのような死に顔は少ない。
ところが、このおじいちゃんは、ほんとうにニコニコしている。時間が経てば経つほどニコニコしている。納棺のときにお孫さんが、「おじいちゃん、どうしてここで寝ているの。もう、起きて」と声をかけるほど、良い笑顔だ。「ハイ、ハイ」とニコニコしながら起きてくるのではないかと錯覚するほどだ。
◆ 葬儀にこられたご住職も、
「いい笑顔だね。めずらしいね。人間いやな思いで死んじゃうと、形相がだんだんと悪くなるんだよ。その人の人生が死に顔に出ちゃうんだね。そういう仏さんはよく見るけど、このおじいちゃんの顔はほんとうにいいね。極楽に行けるね」。
◆ こんな商売をしていると何人もの死に顔を見ることになる。自分が死ぬときは、「じゃ、お先に」ととびっきり良い笑顔で死にたいと思う。
◆ このおじいちゃんのような笑顔で死ねたら、この人の人生は正解だったんだな、紆余曲折があるのは当たり前だが、ともかく幸せな人生だったんだなと思える。やさしいご家族だったんだなとわかる。
人間死ぬときは、金持ちも貧乏人も関係ない。大きな葬儀をしようが、小さな葬儀をしようが、死ぬことに変わりはない。
ただ、この死に顔だけは、その人の人生が刻み込まれているような気がする。恨み辛みを持って、この世に未練をかかえて死ぬ人に穏やかな顔はできないだろう。
◆ 仏教では、臨終の間際に阿弥陀如来が極楽浄土の世界へお迎えに現れ、穏やかな好相をすることを「来迎の相」。逆に臨終の間際に罪の報いを受けて苦しむ相を「罪相」と言うそうだ。
「来迎の相」をされた方は、「輪廻転生」のサイクルから脱出して、ただちに極楽浄土へ往かれる。「罪相」の方は、再び「輪廻転生」のサイクルにもどり、その人の生前の業に従い、49日間の間に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかの世界に生まれ変わることになる。
いろいろな相談を受けたり、いろいろなお顔を拝見させていただくが、「来迎の相」の方は極めて少ない。「罪相」の方が多いようだ。
◆ ご住職が旨いことをいった「人間生きていると病気をしたり、ケガをしたり、そんなことをくり返しながら、だんだんと身体が使えなくなる。そしたら、その身体を捨てて次の世界へ行くんですね。ちょうど幼虫がさなぎから脱皮して、今度は姿を変えて蝶になるように。それが死ぬ事なんです」。
◆ 身の程知らずに付け加えるなら、幼虫時代が充実していたなら、元気な蝶となって天高く飛び立つことができるが、恨み辛みの未練を残すような幼虫時代を過ごせば、やせこけた蝶となり、うまく飛び立つこともかなわないかも知れない。
そのために、お坊さんがこの世の未練を断ち切るように何度もお経をあげる。できるなら、静止状態のさなぎのときに、つまり亡くなられた直前に枕経をあげるのが一番いいのですが。