◆ 2ヶ月前に無宗教の家族葬を行った喪主さまから電話があった。家族葬といっても、亡くなられたご主人は面倒見のいい方で、趣味も多彩で親戚の方以外にもご友人が参列された葬儀だった。
中でも海釣りはいちばんの趣味で、毎週のように出かけ、二人の娘さんたちに美味しいお魚を食べさせるのが楽しみだったようだ。
◆ 葬儀は、無宗教でおこなった。おとなしい奥さまとやさしい娘さんたちの判断によるものだが、ご主人のご兄弟は、面と向かって批判はしていなかったが、不満げなそぶりを見せていた。
それでも、参列者の多くは、素敵な葬儀だったと口々に語り、私たち家族葬ネットの名刺を要望され持っていかれた。
◆ 電話があって数日後に自宅にお伺いした。相談の内容は、四十九日になるが、遺骨を墓に埋葬すべきか、それとも海に散骨した方がいいか、という相談だった。
◆ 九州の田舎には、お墓があるそうだが、お墓を守る親族もいないそうで、まして遠くの九州で埋葬するのも意味がないという気持ちだった。娘さんたちは、お父さまが好きだった海に遺灰を散骨したい、という気持ちが強かった。
ご親族の意見は、お墓に埋葬するのが当然という雰囲気だったようだ。本位牌を備えるのがあたりまえ、という助言で位牌は買われていた。
迷ったあげく、家族葬ネットに電話をされたようだ。
◆ 埋葬するか、散骨するか。
この問題は、本来、葬儀社が口出しする内容ではないだろう。死生観の問題だし、思想の問題だし、宗教観の問題なのだから、その家族や個人の判断の範ちゅうだろう。
しかし、残念ながら、相談する相手によって答えは決まってくるのも事実だ。僧侶に相談すればお墓に埋葬だし、送葬の自由を訴える市民団体に相談すれば散骨だろう。死んだらお墓と思いこんでいる親戚に相談しても同じだろう。
◆ 家族葬ネットは、どう対応すれば良いのだろう。いっしょに悩むしかない。
喪主の奥さまと娘さんたちと話し合った。
最初の疑問は、「お墓に埋めなければ、供養はできないのか」ということだった。仮に供養するためにお墓が必要であっても、遠方のお墓では、墓参りに行けなくなるし、子供や孫が仏教に興味がなく、墓参りに行かなくなれば、結局は無縁仏になってしまう。
◆ そもそも、お墓ってなんだろう。
土葬が一般的な時代に近畿地方や関東地方で拡がり、近年まで受け継がれていたお墓に「両墓制」というシステムがあった。
「遺体を埋葬するお墓(埋め墓)」と「霊魂を祭るお墓(詣り墓)」の二つのお墓を作る習わしだ。一般に両墓制では埋め墓は人里離れた山中に作られ、詣り墓は人家の近くに作られる。「両墓制」の起源は定かではなく、「詣り墓」の発想は、先祖供養を伴った仏教が伝来してから後の話だろう。
しかし、考えとしては合理的で「遺体は霊魂の抜け殻」という日本古来の神道的な考えに先祖供養の仏教も取り入れた供養形式を確立している。
● 現在のような石柱形式の墓の起源も様々で、儒教的な思想と神道的な考えが混ざったものだとする説が有力だ。
● また、現代のお墓のほとんどは「○○家の墓」という形になっているが、この「家単位」の合葬墓が出てきたのは実は明治時代の終わり頃のことで、非常に新しい習俗だ。
● そして、戦後、火葬が普及する中、遺骨を「家単位」の合葬墓に埋葬することが一般的になった。しかし、骨壷の中の遺骨は骨壷が割れない限り、自然に還ることも出来ない。何よりも魂の依り代(霊が現れるときに宿ると考えられているもの/霊の代わりに祭るもの)は「遺骨」にあるのか「墓石」にあるのか、それとも「位牌」にあるのか、また、そもそも故人の霊は存在するのか、は明確でないままだ。故人を偲ぶとき「墓石」なのか「位牌」なのか、仏壇は必要なのか、はっきりしないまま、言われるがままに供養の形式だけを押しつけられるなら、現在の「家」の墓は、運良く子孫が代々続き、しかも仏教心のある子孫が続くことが前提でなければ、おそらく無縁墓になるだろう。
◆ そんな会話を何度も繰り返しながら、そして「ただ、日本の神道を取り入れ発達した大乗仏教は、生きとし生けるものには全て仏性があるといいます。何か良いことがあれば、天国のお父様のお陰だと思い、手をあわせることが、何よりの供養ではないでしょうか」といった助言もあり、最終的に海洋葬を選択された。
◆ 海洋葬には、家族、親族、友人を含めて14名が参加された。横浜港、大桟橋から相模湾まで往復、約3時間半の船旅だ。当日は天候が不安定だったが、雨はあがったので決行した。往路は、結構波もあり苦戦したが、チャータ船はご家族専用の貸切なのでゆっくりと過ごせた。
相模湾で波が静かなうちに散骨した。古代船が静かに沈み、そのまわりを生花(花びら)が天女のように舞った。
復路では、キャビンのなかでサンドイッチとビール、日本酒でお清めをした。
寄港してからは、横浜の中華街で中華料理の精進落としをいただいた。
◆ 別れ際に喪主の奥様から「これで本当に思い残すことはありません」といわれ、安心した。