家族葬の風「音の出ないピアノ」

◆ 亡くなられたお母さまは、第一次世界大戦の終戦の年に生まれ、第二次世界大戦の終戦の年に、愛するご主人を戦争で失われました。三人の乳のみ子幼子をかかえて、荒廃した東京で第2の人生を迎えることになったのです。
 二度の世界大戦に翻弄されながらも、かけがえのない三人のお子様を無事成人させることが、第2の人生のもっとも大切な闘いになりました。
 いまでは、三人のお子様は、立派にご家庭を築かれ、お孫さんたちもすこやかに育っていました。

◆ 喪主の息子さん、とはいっても、会社を定年退職され、第2の人生を奥様と過ごされている方ですが、お姉さんと妹さんの三人兄弟で打ち合わせをして、お母さまの葬儀は無宗教の家族葬にすることを決められました。

◆ いろいろと葬儀社の資料を取り寄せていたそうですが、インターネットで家族葬ネットを見つけられて、お電話をいただきました。
 無宗教の葬儀には、事前の打ち合わせが大切になります。故人の人柄や人生観など知っておかなくては、無宗教の葬儀はなりたちません。
 無宗教の葬儀は、仏式のように僧侶がメイン儀式を仕切るのではなく、家族・遺族が主体となって故人を送る手作りの葬儀だからです。家族の思い出がなりよりも重要な要素になります。

◆ 通夜の前日に三人の兄弟とそのご家族とで、式の打ち合わせをしました。
  しかし、葬儀には、お母さまのことを良く知っている身内しか参加しないので、これといって、あらためて紹介するような話はないとのことでした。
 ところが、長女の方が「そう言えば、妹をおんぶして内職をしていたお母さんが、時々、ダンボールに書いたピアノの鍵盤を弾いていたわ」と思いだされました。次女の方も長男の方もはじめて聞く話だったようです。
 「音のでないピアノ」、この話の裏には、思いがけないお母さまの壮絶なドラマが隠されていたのでした。

◆ 実は、お母さまが幼い頃、大正時代にはめずらしい「ピアノ」が、家にあったそうです。しかも、お母さまは将来ピアニストをめざして、レッスンに励んでいたそうです。
 当時、お父様は、内務省の高級官僚で各県の知事を拝命されていたようで、経済的にも、文化的にも上流階級であったことは、まちがいありません。
 大正ロマン、大正デモクラシーのなか、豊かな文化と自由を謳歌していた時代でした。しかし、残念ながら、まだ女性ピアニストの誕生を受け入れるほど時代は進んでいませんでした。
 そして、大正ロマンもつかの間、戦争への暗い足音が響く中、お母さまは、良き妻の道を選ばれたのでしょう。

◆ 戦争は、お母さまの全てを奪いました。地位も名誉も財産も、そして愛する夫も。
 残されたものは、幼き子供たち。今度は、母として、子供たちを守るため、一人で闘うしかありません。乳のみ子を育てながら、生計を立てるには、慣れない内職にたよるしか生きる道はなかったのでしょう。
 慣れない労働は、きっと辛かったと思います。その辛さをまぎらわそうとして、楽しい思い出がいっぱいにつまったピアノの演奏を夢見ていたのではないでしょうか。
 しかし、ピアノを買う余裕はありません。そこで、内職の材料が入ったダンボールを切り取り、それに鍵盤を書いて「音のでないピアノ」をこしらえたのでしょう。
 きっと、ダンボールの鍵盤に指を置くと、お母さまの頭の中では、むかしよく弾いたクラシックの曲があざやかに奏でられたことでしょう。

◆ 葬儀では、そんな思い出話を司会者が紹介しながら、お母さまの好きだったクラシック音楽をながしました。

◆ 日本で発達した大乗仏教は、生きとし生けるものには全て仏性があるといいます。仏の心は、慈悲。慈悲とは、生きとし生けるものを愛し、生きとし生けるものの苦悩を取り去ることだといいます。
 「音のでないピアノ」を奏でるお母さまに、仏をみたのは私だけでしょうか。

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