日本の仏教のことを「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されます。
仏教の開祖、釈尊「ゴータマ・ブッダ」は、人々を苦しみから解放するために修行にはげみ、苦しみのもとである「煩悩」の先に「無明」があることを発見します。そして、苦しみの輪廻から解脱する方法をみいだし、悟りを得ます。
日本仏教の先達もまた、庶民を苦しみから解放するために仏教にまなび、修行にはげみました。
修行僧に葬儀について聞かれたブッダは、「そんなことを考える暇があるなら、修行しろ」と応え、「葬儀にはかかわるな」ともいわれたそうです。
仏教の経典は膨大にありますが、葬儀に関する教典はありません。仏教は、いかに煩悩から解放され、いかにこの苦しみの人生を生き抜くのかを問うだけです。
このため、葬儀に奔走する日本仏教のことを「葬式仏教」と揶揄されるのです。この「葬式仏教」はいつから、日本ではじまったのでしょう。
「葬式仏教」は、江戸時代に徳川幕府が宗教統制の一貫として、キリスト教などを排除する「寺請制度」を発令したことに端を発します。
寺請制度(てらうけせいど)は、お寺が仏教の信者であることを証明する証文を発行し、それを庶民が請ける制度です。この証文を請けられなければ、キリスト教などの「邪宗門」の嫌疑がかけられ、厳しい拷問がまっています。
この証文を請けるためには、庶民は村のお寺を「菩提寺(ぼだいじ)」と定め、その檀家となることを義務づけられました。檀家制度(だんかせいど)のはじまりです。
檀家となった庶民のお葬式や供養・法事は、自動的に菩提寺が独占的にとりおこなうようになります。
ところが、それまでお坊さんは庶民のお葬式をあまり経験したことがありませんでした。
おなじお坊さんが他界したときに、その僧侶の戒名で葬儀をあげる経験しかありません。そこで妙案を思いつきます。
庶民が亡くなったときは、死者の頭の毛をそる(剃髪)など得度式(とくどしき/出家の儀式)を葬儀で再現し、出家した証しに戒名をさずけ、出家者の心得を読経する。こうして死者を「にわか出家者」と見なして葬儀をおこなう、そう「信仰心なき仏式葬儀」のシステムを編みだしたのです。
このシステムは、室町時代ごろから、修行僧が道半ばに他界したときに考えられた方法を土台にしたようです。
さらに寺請制度では、現在の戸籍にあたる「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」をお寺の住職に作成させ、庶民の生活全般を管理させました。
庶民にとっては、寺請証文がなければ、結婚、就職、旅行などもままなりません。万が一、住職に睨(にら)まれれば、社会的な地位も生活基盤も失いかねません。
こうして寺院は、幕府の統治体制の一翼を担うようになり、各地のお寺は幕府の出先機関と化し、権力の片棒をかつぐことになります。
また寺請制度は、汚職の温床にもなり、俗化と腐敗の坂道を転がり落ちる僧侶もあらわれてきます。権力は、煩悩の炎を燃えたぎらせます。
寺請制度は、庶民を管理・統制するシステムです。
菩提寺の住職は、現場で庶民を統制する管理官です。住職(管理官)から寺請証文を発行してもらえなければ、庶民にとっては命取りです。庶民には、信仰心ではなく、住職(管理官)に対する忠誠心が求められたのです。
この忠誠心が、信仰心なき仏式葬儀「葬式仏教」を支えてきた原動力だったのです。
しかし、村にある菩提寺の住職さんだけで、村民を管理するのは骨が折れたことでしょう。
村人のなかには住職に付け届けをしながら、忠誠心の証しとして、あるいはお目こぼしを期待して、密告する輩もいたことでしょう。それが村内の相互監視につながり、集団管理を可能にします。村落共同体の集団管理は、村落共同体として菩提寺に忠誠心を誓うことで、より強固なシステムとなります。
武士は、殿様や藩に忠誠心を誓い、村民は村落共同体として藩と菩提寺に忠誠心を誓います。このような状態が明治維新まで約260年間つづきました。明治維新によって藩への忠誠心は解放されますが、村落共同体にこびりついた菩提寺への忠誠心は、共同体のしきたりや習慣として根づいていきます。
時代が変わり明治になると、明治元年に政府は、仏教の特権をうばう「神仏分離令」を発令します。
この「神仏分離令」をきっかけに、仏教界に反発を抱いていた民衆が、全国の仏教施設を破壊するという「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が高まり、多くの寺院仏閣、仏像、教典などが被害にあいました。
国家神道による宗教統制をめざす明治政府は、「神前結婚式」をヒットさせ、国民の間に定着させました。葬儀も神道バージョンの「神葬祭」を普及させようとしましたが、長年にわたって先祖のお墓を所有する寺院墓地の存在にその野望はくだかれます。
祖先崇拝という庶民の素朴な信仰は、仏教供養に組み込まれ、お墓参りなどに普及してきました。日本仏教は、そのお墓で生きのびてきたといえるかもしれません。
戦後になるとGHQの統制化で、「農地改革」がすすめられ、お寺が持っていた「寺社領」も没収されました。
それまで寺社領の農地では、小作人が働き、お寺の生活を支えていました。生活基盤を絶たれた戦後第一世代の住職は、ほかの仕事をさがして兼業するか、葬祭ビジネスに活路を見出すしか方法がありませんでした。
墓地は没収されなかったので、生き残った檀家を頼りに、悪戦苦闘をくり返しながら、高度成長期をむかえます。農村も都会も派手な葬儀を営み、戒名料もうなぎ登り。院居士で100万、200万。院殿居士で300万、500万円などの話もでます。さすがに高すぎるといった批判記事が新聞を賑わせたのもこのころです。
また、やり手の住職は、宗教法人の免税措置を活用し、幼稚園を開いたり、墓地経営を拡大したり、あるいは観光寺として寺院経営を立て直していきました。
こうして各お寺の住職は、りっぱな「寺院経営者」として再出発したのです。
やがて住職の後継者になる大卒の戦後2世、3世の時代が訪れます。先代の築いた財産を受けつぐ番になります。
もちろん、お寺の財産は宗教法人のものですが、住職は世襲制ですので、親の作った財産、お寺、墓地、土地、預金などは後継者の長男が譲り受けます。そこで長男坊は、この資産をどのように守るか、増やすか、何に使おうかと頭をめぐらせ、修行は二の次になります。
出家し、財産や資産などから縁を絶ち、俗世界の執着から離れ、悟りのために修行にうちこむ、そんな仏陀の姿はそこにありません。
資産管理者としての僧侶の姿が、檀家の前にあらわれます。「最近、老朽化が激しくて、ご本尊様に申し訳なくて、そろそろお寺も建て替え時かね」などと愚痴りながら、建て替え資金の協力を請います。
赤いスポーツカーのお坊さんも、転売価格の高い高級車に投資した正当な資産運用者なのかもしれません。「おやじ、いい買い物だろう」と自慢げに話す姿が想像できます。
もはや、寺院の後継者に最も求められるのは、仏心ではなく、物欲なのかもしれませんね。
時代の荒波に翻弄されてきた日本の仏教、無論そのなかで時代に抗い仏心を広めようとしてきた立派なお坊さんもいらっしゃることは存じています。
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