無宗教葬の葬儀を遺言されていたのは、奥さまでした。ご主人もお子さまたちも承諾されていました。
ところが、ふたを開ければ、お父さまのご意向を酌(く)んで奥さまのお葬式は、家族葬の遺志は守られたものの、仏式のお葬式に変更されました。
このようなケース、つまり故人の意向に反して、ご遺族やご親族の考えで、無宗教葬の葬儀が、仏式のお葬式に変わることはときどきあります。
これは、故人の意向を尊重するご遺族だったのか、無視するご遺族だったのかの違いでしょうか。
日本のお葬式は、おそらく1980年代ころまでは、なんらかの共同体(イエ・ムラ)の死者供養でした。
1984年に公開された映画「お葬式」の監督・伊丹十三さんは「シティ・ボーイがふるさとの役を演じるのがお葬式である」と見ぬき、そのチグハグさをストーリーの土台にすえました。
その習慣にたいして1990年代のころから、お葬式について「葬送の自由」や「故人の遺志」がさけばれるようになります。我がシティ・ボーイ達は、このムードにのり、「ふるさとの役」から徐々に遠ざかるようになります。そして、散骨や無宗教葬が社会的を賑わせるようになりました。
イエ・ムラの束縛から逃れようとする「葬送の自由派」とイエ・ムラのきずなに寄りそう「しきたり派」のせめぎ合いが、はじまります。無宗教葬か、仏式のお葬式か。
無宗教葬のお葬式を遺言された娘さんの遺志が棚に上げられた理由は、お父さまから投げかけられた最後の切り札、「せめてお経でもあげないと、成仏しないよ」という言葉でした。
ご主人は「なぜ、お経をあげないと成仏しないのか」「そもそも成仏ってなに?」などと疑問をもちながらも、娘に先立たれたご両親の懇願もその切ない気持ちを受けとめれば無下に断るわけにもいかない。
葛藤の末にご主人は、奥さまの願いに目をつぶり、戒名無しの仏式のお葬式を選択されたのだろうと思います。苦しい選択だったのかもしれません。
そんな想いを赤いスポーツカーのお坊さんは、台無しにしてくれました。
奥さまは見抜いていたのでしょう。家族との大切な最期の時間をこんなお坊さんに邪魔されたくないと。しかし、いまとなっては「死人に口無し」です。
お葬式は、ご遺族にとっては、つらいものです。
大切な家族を失ったご遺族は、その悲しみや喪失感をそう簡単にぬぐい去ることはできません。ご遺族は、お葬式でその心の穴を埋める、そして乗りこえる切っかけを見つけだそうとします。
そんな遺族の気持ちに応えて「死者を成仏させる」という他界観を示して、ご遺族とイエ・ムラ(共同体)に安心感を提供してきたのが仏式のお葬式です。
そこには、故人の遺志とか自由とかでお葬式を選ぶ余地はありません。なぜなら、仏式のお葬式は、遺族とイエ・ムラのためにあるからです。
お葬式でお坊さんを決めるとき「お父さん(故人)の信仰していた宗教はなんだっけ」とは聞きません。
「家の宗教はなんだっけ」と実家に電話したり、田舎の親戚に聞いたりします。もとより故人の意思・信仰など気にしておりません。
仏式のお葬式は、しきたりです。お坊さんのいないお葬式は、お葬式とはいえないのです。
おそらくR家のお父さまは、娘さんの夫から、お葬式を無宗教葬でおこなうと聞かされたとき「こいつは、いったい何を考えているのだろう?葬儀をしないつもりか」と思われたことでしょう。だから「せめてお経ぐらいあげないと、成仏しないよ(成仏させないつもりか!)」といったのです。
もとより娘さん(故人)の遺志とお葬式は関係ないのです。もちろん「故人のためだから」というでしょうし、そう信じ切っているでしょうが、今となっては故人が納得しているのか、それとも反論があるのかも聞くことは叶いません。
「成仏する」ことが、本当に故人のためになっているのか、はたまた「成仏」は可能なのか、それについては次章の「成仏とはなにか」に譲ります。
無宗教葬は、故人の遺言や生前の会話を通してご遺族が故人の生きざまにふさわしいと判断された結果として無宗教を選択された場合におこなわれる葬儀です。
遺言という形で無宗教葬を選択されていない場合でも、特別な宗教などに信心していなく、形式にあまりこだわらない人であったなば、あとはご遺族の判断で無宗教葬を選択されることもあります。
もちろん、生前にどこかの宗派に帰依していたり、生前に戒名を授かっていたならば、また漠然とではありますが、仏教に信頼をおいていたのならば、仏式葬儀がふさわしいでしょう。クリスチャンならば明快でわかりやすいのですが、どうも「死んだら仏式葬儀」という「しきたり」が、ながらく続いてきたものですから、故人の遺志や宗教心・信仰心を大切にする葬送文化が希薄です。
R家では「成仏」という言葉に翻弄(ほんろう)されました。念仏のごとく唱えられる「成仏」という言葉は、仏式のお葬式を支えています。いったい「成仏」とは、どのような信仰にもとづいているのでしょう。吟味する必要がありそうです。