成仏とは何か?新・仏教辞典(誠信書房)によれば、成仏とは
「覚(さと)りをひらいて、仏陀(Buddha・覚者)に成ることをいう。死者を成仏したというのは、浄土真宗で死後阿弥陀仏の浄土に生まれると同時に成仏すると説くのに由来する。」
ということだそうです。逆に「成仏しない」とは「仏陀になれない」ことになります。そもそも仏陀になろうと修行を積んでいる一般人は少ないと思うのですが。
そこで「恐れ多くも、わたしは仏陀になるような人間ではございません。さとりを開くなど無理です。修行も無理です。成仏など願いませんので」と断っても、そう簡単に問屋がおろしてくれません。
成仏をとく親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、日本で信者の数が一番多いといわれる「浄土真宗」の開祖です。
若い親鸞は、苦しくて辛いこの世で庶民が修行を積み、覚りをひらくのはむずかしい。しかし、そのような哀れな庶民を救うのが、仏ではないのかと自問自答します。すると仏は、そのために浄土門があるとすすめます。
親鸞は、一切衆生を救済すると誓った阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏(なむ・あみだぶつ)と念仏すれば、あの世では浄土に生まれ変わり、仏陀になれると易行を学びます。易行とは、誰でもたやすくできる修行という意味です。しかし、親鸞は、その修行も必要ないといいます。
成仏に、修行も必要ないと聞くと、つい誘われるのですが、成仏の行き先が気になります。
「ところで、その『ジョウド』って、どんなところ?そこでお金とか、財産とか渡さなくちゃいけないとか?危なくない?」と心配になるむきも、いえいえ「譲渡(じょうと)」ではありません。「浄土」です。
浄土とは、さとりを開いた仏または将来さとりをひらくべき菩薩の住むところです。阿弥陀仏の浄土を「西方極楽浄土」といいます。「極楽?いいねッ、きれいな姉ちゃんもいるのかね」などと妄想してはいけません。そんな煩悩を消し去った覚者の国土が、浄土ですので。
しかし「極楽浄土」の言葉が醸しだすイメージは、庶民にはきらびやかで豊潤な世界を夢想させます。
しかも念仏し、信心すれば、そこに行けると聞けば、「極楽浄土」は叶わぬ夢ではありません。
かくして浄土門の教えは、庶民の仏教として、その勢力を伸ばします。そして、戦国時代には大名を恐れさせる一向一揆をおこすほどの組織力を誇るようになります。
いつしか「成仏」は、死者が「極楽浄土」へ往生することを意味する言葉として、宗派をこえて庶民の通念となりました。「成仏」は、家族を亡くした遺族にとっては、その悲しみを癒す言葉となりました。
江戸時代以降、死者を「成仏」させる儀式として仏式葬儀は定着していきます。
ところで、信者でなくても「成仏」はできるのでしょうか?
成仏を説く親鸞が学んだ浄土教では、仏教を自力の聖道門(しょうどうもん)と他力の浄土門に分けます。
聖道門は、さまざまな修行をとおして、自力で成仏することを説くグループです。当時では、天台宗や真言宗をさし、のちの禅宗もこのグループに入ります。
親鸞は、聖道門の道は、実現がむずかしく庶民の救済にはむかないと一線を画します。煩悩に苦しむ衆生は、阿弥陀仏に帰依(きえ)し、その本願力(他力本願)にすがる以外に浄土へ往生できる道はないと浄土門を説きます。
親鸞は、浄土教以外の仏教を批判し、敵にまわすことになります。そのうえ、自力の修行も必要ないと断じれば、お釈迦さまもビックリです。
成仏へ導く親鸞の行動は、さらにエスカレートしていきます。
理屈だけなら、まだしも、さらに親鸞は、当時仏教界では御法度だった「肉食妻帯」の禁を公然とやぶり、奥さんをめとり、魚や獣の肉を食べる行動にでたのです。
これは、悟りをひらくための出家や戒律をことごとく否定したことになります。当然ながら親鸞には、「破戒僧」「堕落坊主」「仏敵」「エロ坊主?」などと罵詈雑言(ばりぞうごん)が嵐のように浴びせられ、世間中からバッシングを受けることになります。ブログがあれば大炎上です。
しかし、これは奇をてらったパフォーマンスではなく、阿弥陀仏の他力本願にすがる親鸞の徹底した信仰心のあらわれではないかと思います。
余談ですが、浄土真宗は仏教というより、キリスト教に通じるところがあります。
「煩悩」を「原罪」と読みかえるならば、救済物語として、人々を煩悩から救おうと本願を発揮する阿弥陀仏は、人類の原罪を背負い贖罪(しょくざい)したイエス・キリストの話ににています。とくに信仰心のあり方が酷似(こくじ)しています。
キリスト教も自力のはからいを否定します。ひたすら神を信じなさいといいます。イエス・キリストが神の子であると信じなさい。疑いを許しません。浄土真宗もひたすら阿弥陀仏の本願を信じなさいといいます。そして、二つの教えも、因果応報を否定し、過去の善悪を問いません。改心し、神を阿弥陀仏を信じれば救われます。
現世においても、信者はキリストの”愛”につつまれ、阿弥陀仏の”慈悲”に生きます。両者とも、信者には難しい規律や戒律を求めず、ただただ深い信仰をもとめます。
「親鸞は、欧米か!」とつっこみを入れたくなるところですが、浄土真宗は仏教とは次元を異にする「親鸞教」かもしれません。ともかく信仰の深さは、世界宗教並みです。
親鸞の考える信仰はとてつもなく深いようです。『歎異抄』にその凄みを感じさせる一節があります。一部を引用し要約します。
「たとえ法然上人(浄土門の師匠)にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、わたしは決して後悔はいたしません。・・・それというのも、どんな修行にもたえられないこの私ですから、結局、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりません」と。
この絶対服従の信仰こそが、宗教の信仰心なのです。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教にも勝るとも劣らない信仰心です。宗教の信仰心は、人の精神を強固なものにします。宗教の力はあなどれません。宗教は強く、そして怖いのです。
仏教のなかでも、出家や修行をもとめない易行といわれる浄土真宗を題材に信仰心と成仏の関係をみてきましたが、やはり「信仰心なくば、成仏なし!」です。
ましてや、お金で信仰心を買うことなどできません。信仰心がなくても、お金を払えば成仏できるわよといえば、それは「霊感商法」です。
もし「成仏」を望むなら、せめて信者になるしか方法はありません。だから、本来の宗教家は、信者になるように熱心に「布教」します。
ところが、日本の仏式葬儀は、信者でなくても、死後に信者名として戒名を授け、にわか信者にしたてて葬儀をおこなうという世界的にみても珍しいシステムを広く採用しています。
信者であるかどうかを求めない日本の仏式葬儀は、「信仰心なき宗教儀式」といえます。
これは、明らかに論理矛盾です。阿弥陀仏も信じていない人を浄土に送ると聞けば、親鸞もビックリです。霊感商法とはいいませんが、「マジックショー」を見せられているようです。
しかし、江戸時代より今日21世紀まで400年ちかく、この「マジックショー」が続いてきたのです。ギネス登録間違いなしです。
「死後に戒名(法名)をつけたから、信者になりました」という簡単なトリックを見破れなかったというのでしょうか。日本人を馬鹿にしないでほしい。きっと、信仰や宗教とは違った力が働いていたとしか考えられません。
信仰心なき仏式葬儀を采配する仏教を「葬式仏教」と揶揄されます。その日本独特の「葬式仏教」に迫ります。