死後、ひとの体の約96%は、火葬(日本は約800℃〜1000℃)により、完全燃焼して二酸化炭素や水蒸気などの気体となって大気に放出されます。
残り4%(主にリン酸カルシウム/融点は1670℃)は、燃焼することなく燃えかすとして残ります。これが焼骨、骨灰です。
大気に放出された二酸化炭素( CO2)は、光合成により植物のエネルギーとなり、水蒸気(H2O)は雲となり雨となって大地にふりそそぎます。
死は、その役割を終えた生命体を再び自然界に還す役割をになっています。死は、生のあかしであり、自然の大いなる営みです。そんな死には、プレゼントが用意されていました。
「『自然死』は、いわゆる”餓死”ですが、その実体は次のようなものです。
『飢餓』・・・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『脱水』・・・・・意識レベルが下がる
『酸欠状態』・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『炭酸ガス貯留』・麻酔作用あり
(つまり)死にぎわは、何らの医療措置を行わなければ、夢うつつの気持ちいい、穏やかな状態になるということです。これが、自然のしくみです。自然はそんなに苛酷ではないのです。私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです」
「本当なの?」と疑問をもたれた方もいらっしゃくかもしれませんが、これは、現役医師の中村仁一氏が書かれた「往生したけりゃ医療とかかわるな/『自然死』のすすめ」の中の一文です。
中村医師は、延命治療を施さず、最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見とどけてこられたました。実体験に裏付けられた結論なのです。
「死というのは自然の営みですから、そんなに苛酷ではないのです。痛みや苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちに、この世からあの世へ移行することだと思うのです。」と中村医師は語られています。
マラソンなどで体が疲労を感じはじめると、脳内伝達物質の一つでモルヒネと同様のはたらきをする脳内エンドルフィンの分泌がふえ、痛みをやわらげてくれるそうです。さらにこの物質は「快感」をもたらし「ランナーズ・ハイ」という陶酔状態におちいるといわれています。このため、これらの脳内物質は「脳内麻薬」ともよばれています。
「自然死」の死にぎわは、一種の陶酔状態になっていると考えられます。極楽浄土を信じる人には極楽浄土に往生し、天国を信じる人には天使が現れイエスのもとへ、あるいはモハメットの導きで絢爛豪華な緑園へ、タオイズムを信じる人は天空を飛行しているかもしれません。またある人は、母親の胸にいだかれ、なつかしい人々に出会っているかもしれません。
この「自然死」における死にぎわの陶酔状態を家族葬ネットでは、「エンディング・ハイ」とよぶことにします。お年寄りの老衰死に与えられた”最期の贈り物”を中村医師は”特権”と記されています。
「平成17年12月1日、私がはじめてホームの配置医として所長に案内されて、胃瘻(いろう/胃腔に向かってお腹に開けられた孔とそこに設置された管)や経鼻胃管(けいびいかん/鼻の孔を通して胃の中に入れられた管)から経管栄養を受けておられる16名の方にお会いした時の私の気持ちは、言葉に言い表せないものがありました。
・・・確かにご家族にしてみれば、一日でも長く生きていて欲しい、その思いは当然であります。意識があってご家族の努力に応えられる方ではお互いに救われるものがありましょう。しかし、ほとんどの方は喋れません。
・・・鼻から管を入れられて、一日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。胃に直接注入される”宇宙食”は、ご本人にはどのような味がするのでしょうか。『今日はお腹がすかないから、もう結構です』と言えないのです。この人たちは誰のためにこんな難行苦行を強いられなければならないのでしょう。
・・・寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥(ごえん)性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。
・・・医療技術の進歩と延命主義による自縄自縛(じじょうじばく/自分の縄で自分を縛る意)の悲劇をそこに見た思いでした。」
上記の文章は、世田谷区の特別擁護老人ホーム・芦花ホームに勤務する飛石幸三医師の実体験をベースにつづられた講談社発行の「『平穏死』のすすめ」の一文です。老衰の終末期にかかわる延命治療に警告を鳴らしています。
飛石医師はつづけます。「医療技術の発達により死ぬまでの時間は引き延ばされました。しかし医療は死を止めることはできません。高齢になるほど増える認知症、いずれ自分の口では食べれなくなります。無理に食べようとすると誤嚥(ごえん/物を飲み込む際誤って気管に入ること)して肺炎を起こします。病院に入院して肺炎は収まります。しかし誤嚥しやすいことは変わりません。胃に直接栄養剤を入れる胃瘻の手術を勧められます。
・・・多くの人は、安らかな人生の終末を期待しています。・・・本当は自宅で最期を迎えたいのですが、家族に負担を掛けることを考えて、ホームでの最期を望んでいます。
・・・(しかし実態は)老衰の終末期にもかかわらず、医療による延命治療をされるべく、日本人の80%が病院で亡くなっています。」
この文章を読んで鈍感になっている自分に気づかされます。私たちの商売では、病院にご遺体をおむかえに行くことがあたり前です。そして、ほとんどの方が、終末期の高齢者です。
手の甲には点滴と思われる針のあとが赤黒くにじみ、痛々しさを感じるときもあります。最近では、ご遺体をベッドからストレッチャーに移す前に自然に手を触ってしまいます。内出血した点滴のあとをみれば、こころが締めつけられます。
しかし、よくよく考えると病院は「治療の場」であって「看取りの場」でもなければ、「終の棲家」でもないはずです。病をかかえ治療にあたっていたが、運悪く命を失うことはあるでしょう。でも老衰は、病気ではないはずです。
終末期の「死」について、問い直す時期がきているのです。