<作家> あくたがわりゅうのすけ
1892~1927年。東京京橋入船町にうまれる。
早くから天才ぶりを発揮。「鼻」「羅生門」「地獄変」「奉教人の死」など日本を代表する名作をのこす。
戒名は「懿文院龍之介日崇居士」
墓所は<東京都豊島区巣鴨の慈眼寺>
芥川の母は芥川の生後九ヶ月ころ発狂した。芥川自身も強度の神経衰弱を病んだり、家庭的な問題で悩んでいた。友人の久米正雄には「自分は発狂する前に死ぬ」と語っていたという。
自殺は2年前から考えていたらしい。昭和2年7月23日の夕方に家族と夕食を共にし、その夜、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。夫人には「いつもの睡眠薬を飲んだ」といったという。
死の前日、芥川は近所に住む室生犀星(詩人)を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。
夫人や菊池寛ら友人あてに遺書が4通あった。
辞世の句は「水涕や 鼻の先だけ 暮れ残る」
(カリスマたちの遺言/東京書房より抜粋)
菊池寛の弔辞
芥川龍之介君よ
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん
友人總代 菊池寛
<寅さん、俳優>あつみきよし
東京生まれ。本名・田所康雄。
山田洋次監督の「男はつらいよ」の寅さん役で一世を風靡。昭和63年には紫綬褒章を受章。
平成8年8月4日没。享年68歳。
墓所は<東京都新宿区の源慶寺>
平成6年、肺ガンだとわかるが、闘病の苦痛を周囲にかくしたまま「男はつらいよ」の第47作目を撮影。翌年、遺作となる第48作目の撮影にはいる。
岡山県津山と、震災後の神戸、奄美大島がロケ地となったが、そのころ渥美には、いつものように笑顔でファンに手を振るだけの気力もない状態だった。腹巻きに隠した抗ガン剤を撮影の合間に飲み、薬の包装は、ほかのスタッフに気づかれないよう、付き人に始末させた。
平成8年7月末、様態が急変、31日に手術をうけるが、すでにガンの移転はひろがり、手遅れだった。
8月4日死去。「おれのやせ細った死に顔を他人に見せるな。家族だけで荼毘に付してくれ」という遺言に従って、密葬にふされた。
墓石には本名の“田所康雄”とだけあり、どこにも役者“渥美清”の名も戒名もない。「死んでいくのは田所康雄であって、渥美清でも“寅”でもない。絶対に“寅”の墓は作るな」「戒名はつけるな」と言い残した。この意向によるものだ。葬式が終わるまで、その死さえ秘密にされていた。
(カリスマたちの遺言/東京書房より抜粋)
<作家> あべこうぼう
1924~1993年。東京滝野川生まれ、東京大学医学部に進学。
昭和25年「赤い繭」で第二回戦後文学賞、翌26年「壁-S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。ノーベル文学賞の候補にも。
墓所は<東京都八王子市の川上霊園>
「死が身近にある時代だからこそ、生きることの意味が濃密になっているともいえるでしょう。/大切なのは、生きることと死なないことは、かならずしも同じではないということです。死なないことにこだわるから、核シェルターが出てくる。死なないために相手を抹殺せざるを得なくなる。/こういえば、もっとわかりやすいかな。生きることは、生き延びることではない。両者はまったく違うことです」とインタビューにこたえる。(新潮45S60.1)
平成4年12月25日に軽い脳出血で倒れる。退院したが、再び悪化し入院したまま亡くなる。
自宅の応接間に青いマットがひかれ、簡素な祭壇。弔問者はカーネーションを受け取り、柩の前に献花する。約150人の参列者は三々五々あつまり、黙々と花をささげる。なれないことで困惑の表情。前日の通夜までは柩さえ用いなかった。完全な無宗教。
「故人は形式なものを好まない性格でしたので、このような簡素な葬儀にしました」と娘婿の医師の真能純一さんが出棺の祭、説明した。
(葬送/教養文庫、知識人99人の死に方/角川ソフィア文庫より抜粋)
<古代ギリシャの哲学者> ありすとてれす
紀元前384~322年。
プラトンの弟子にしてアレキサンダー大王の師、万学の祖といわれる。
晩年ギリシャのアテナイを追われ、エウリポス海峡にゆき、海峡の潮流のふしぎな動きが不可解で、
「エウリポスよ、わたしをのみこめ。わたしはお前を理解することができないから」
といって、海峡に投身して死んだといわれる。常人には理解不可能。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)