<江戸末期の幕臣のち明治政府の高官>
かつかいしゅう
1823~1899年。江戸本所亀沢町に生まれる。
戒名は「大観院殿海舟日安大居士」
墓所は<東京都大田区の洗足公園>
非戦論を唱えて西郷隆盛と政治折衝し、江戸城を無血開城に導いた。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。
明治32年(1899年)1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、21日死去。76才だった。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。時の海軍大臣の山本権兵衛は海軍省に銅像建立を考えたが、勝がばかにしていたというのでやめた。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋)
<哲学者> かんと
イマヌエル・カント
1724~1804年。東プロシアのケーニヒスベルクで生まれる。
墓所は<カリーニングラード>
近世における最も重要な思想家の一人。「純粋理性批判」「超越論的分析論」を著す。虚弱で小さく、筋骨薄弱であったが、極度の節制と規律正しい生活により80まで生きた。一生ほとんど生まれ故郷のケーニヒスベルクを離れず、結婚もせず、隣町にさえ行かず、正確に5時に起き、同じ町の同じ地点を正確に散歩し、書斎の温度も一定を保った。しかし、70歳を越えてからは衰弱し、がりがりにやせ老衰から死亡した。
彼は最期に末期の水がわりに砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) と言って息を引き取ったという。早朝ひそかに少数の食事友達だけに見送られて埋葬されたいと書き物に残していたが、当時のドイツの哲学者は論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。大学葬がおこなわれ、見たことのないような敬意と荘厳さにみちた大がかりな葬儀が行われた。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋)
<数学者、天文学者、物理学者> がりれお・がりれい
ガリレオ・ガリレイ
1564~1642年。イタリアピサに生まれる。
墓所は<イタリア、フィレンツェ>
音楽家の息子として生まれ、「落下の法則」「振子の定律」などを発見する。自ら作った望遠鏡で天体観測をし、コペルニクスの地動説を証明し、聖書を冒涜した罪で終身監禁されたが裁判の時「それでも地球は動く」といったという伝説は有名。失明し、娘を亡くし、その中で「落下の法則」などをおさめた著書を密かに出版している。熱病で死んだが、約百年間遺体は教会の地下室に置かれ、墓は許されなかった。宗教裁判から350年後の1983年ヴァチカンは教会の罪を認め、ガリレオに謝罪した。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋)
<化学・物理学者> きゅりーふじん
マリー・キュリー
1867~1934年。ポーランドのワルシャワで生まれる。
36歳の時夫ピエールとともにラジウムの発見でノーベル物理学賞を、44歳の時金属ラジウムの分離に成功しノーベル化学賞を受賞する。ノーベル賞を2度受けた女性は彼女だけである。
墓所<パリのパンテオン>
「放射能」という言葉を初めて使用し、核物理学の世界の鍵を開けたが、その害には関心をもたなかった。夫ピエールは馬車にひかれて死んだが、彼女は67歳で骨髄性白血病で死んだ。95年夫妻の遺体は、パリ郊外の墓地から国家功労者をまつるパンテオンに移葬された。2人の遺体からは人体にないラジウム226が検出された。無害なレベルだが、骨1キロあたり8ナノキュリーの放射能が計測されている。
(人間臨終図巻/徳間文庫 百人の20世紀/朝日新聞社より抜粋)