<文学者・思想家> さどこうしゃく
マルキ・ド・サド
1740~1814年。フランスのパリに生まれる。
墓所は<パリ、シャレントン>
サディズムの名を広める。背徳の罪による逮捕、逃亡を繰り返し、38歳で牢獄に収容されるが50歳の時にフランス革命のおかげで釈放される。「ジュスティ-ヌ」その他の作品で流行作家になるが、反革命の罪でまた逮捕され、釈放される。そして61歳で作品がわいせつ書として逮捕された時、シャラントン精神病院に入り死亡する。生涯のうち30年間は牢獄生活であった。怪物的に肥満した彼は1806年に遺書を書いた。
「私の遺体は絶対に人に見せてはならぬ。」「遺体は木の棺に入れ、ふたに釘を打たず、私が死んだ部屋に48時間安置して・・・」「遺体は・・・にある私の所有地の森に運んでもらいたい・・・その林の中に、儀式は一切とり行わずに埋葬してほしい。墓に土をかぶせたなら、その上に樫の実をまき、・・・墓の上に雑木林が生い茂り、地上から私の痕跡が消え去ることを願う。あらゆる世人の記憶から私の名が末梢されることを望む」
そして8年後に死んだ。その名を恥じる家族はその墓に名を彫らず、また墓地の整理で発掘された頭蓋骨も行方しれずである。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋 ブリタニカ国際大百科事典参照)
<作家> さるとる
ジャンポール・サルトル
1905~1980年。フランスのパリで生まれる。
墓所は<パリのクララ・ハスキルの墓(モンパルナス墓地)>
「実存主義とは何か」「嘔吐」「人文書院」などを著し、フランスや日本の若者達に熱狂的に迎えられた。実存主義の旗手。動員兵士の時にドイツ軍の捕虜になったこともある。戦後は植民地解放闘争に積極的に取り組み、ベトナム戦争の時には、米国の犯罪を裁くバートランド・ラッセル法廷の裁判長にもなった。64年にはノーベル文学賞の受賞を辞退した。
ボーボワールと契約結婚をするが奔放でいつも何人もの愛人がいた。作家廃業を宣言してからは、フランス労働者の平均賃金をはるかに下回る印税だけで、自身の葬式代を心配するような最低の生活をし、高血圧、動脈硬化、糖尿病による思考力鈍麻、めまい、顔面その他の筋肉麻痺、運動失調、そして排泄もままならぬようになり、最後は病院で死去した。土葬が普通であったが、遺言によって火葬に付された。
(人間臨終図巻/徳間文庫 百人の20世紀/朝日新聞社より抜粋)
<作家> さんてぐじゅぺり
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ
1900~1944年。仏リヨンに生まれる。
代表作に「星の王子さま」がある。
墓所は<パリ、アンヴァリッド前に祈念碑>
地方貴族の家に生まれる。海軍の学校は不合格、美術学校に通うが才能を認めてもらえず、20歳で兵役につき操縦士の資格をとり、22歳で除隊する。タイル会社の事務員、トラックのセールスマンを経て航空郵便の飛行士となる。「南方郵便機」「夜間飛行」で作家として成功する。世渡り下手で、金銭感覚がなく借金ばかりが増え、筆は遅かったといわれる。
第二次大戦でパリがドイツに占領された後、アメリカに脱出し「星の王子さま」を書く。今でも毎年百万部が売れているベストセラーである。しかし、亡命フランス人同士の派閥争いや中傷に疲れた彼は、再び戦場にむかう。そして1944年(この年パリは解放されている。)に敵地撮影のため、地中海・コルシカ島から一人乗り偵察機で飛び立ったまま行方不明となる。最後はなぞのままである。ドイツの撃墜記録にもなく、半世紀の間に何度も行われた捜索でも発見されなかった。
98年に飛行機の残骸と腕輪が発見が報告されたが不自然な点が多く依然「最後の謎」をめぐる騒動は続いている。
(百人の20世紀/朝日新聞社より抜粋)