<ギャング> ある・かぽね
アルフォンス・ガブリエル・カポネ/1899~1947年。
ナポリから来た移民の子としてニューヨークのスラムに生まれる。1920年からの禁酒時代のアメリカで、闇酒密売の総元締めとなり、シカゴのギャングの帝王となる。
墓所は<Mount Carmel Cemetery, Hillside, Cook County, Illinois, USA >
ギャングのライバルをかたっぱしから殺した。相手と握手してその右手を封じて殺したシェークハンド・マーダー、警官に化けて7人の親分を並ばせ、いっせいに機関銃でなぎたおした「聖ヴァレンタインの大虐殺」など話はつきない。もっとも彼はちゃんとアリバイを作っていた。それでも彼の手で20~60人を殺し、すくなくとも400件の殺人の指揮をとったといわれる。
顔に傷があったことで「スカーフェイス」というニックネームがあった。
しかし、1931年、33才のとき、脱税で検挙され、懲役11年と巨額の罰金を宣告され、入獄した。模範囚だったが、梅毒が進行。1939年に40才で出所、マイアミの別荘でひっそりと暮らす。
1947年、卒中につづく肺炎で、家族にみとられて死んだ。48才だった。死後、彼の弁護士は「カポネは無一文で死んだ」と国税庁に申告した。事実だったようだ。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)
<童話作家> あんでるせん
ハンス・クリスチャン・アンデルセン/1805~1875。
「人魚姫」「おやゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」「マッチ売りの少女」などの世界的な童謡作家。
墓所は<デンマークのコペンハーゲン>
デンマークの貧しい靴屋で22才の父と無教養な洗濯女で40ちかい母とのあいだに生まれる。「デンマークのオランウータン」をいわれるぐらい醜男(ぶおとこ)だが、性格は女性的。ついに一生女性から愛されることなく独身でおわる。
大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。
1875年4月2日の70才の誕生日には、国をあげて祝福され、銅像を建てられることもきまった。しかし、病魔におかされていた。肝臓ガンだったといわれる。
晩年の彼を庇護していたユダヤ人の富商メルキオール家では、手厚く看護された。
彼はベッドに横たわったままつぶやいた。
「なんとわたしは幸福なのだろう。なんとこの世は美しいのだろう。人生はかくも美しい。わたしはまるで、苦しみもない遠い国へ旅たってゆくかのようだ」
8月4日に息をひきとった。葬儀は国葬をもっておこなわれた。王族から乞食、老人からこどもまで参列し、広大な聖母教会には弔問者の十分の一もはいれなかった。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)
<浮世絵絵師> あんどうひろしげ
1797~1858年。江戸八代州河岸の定火消し屋敷で生まれる。安藤は本姓、広重は画号。歌川広重の方が据わりがいい。
役者絵、美人画、武者絵なども描いたが、特に風景画にすぐれこの分野を大成した。「東海道五十三次」は代表作。
法名は「顕功院徳翁立斎居士」
墓所は<東京都足立区の東岳寺>
安政5年夏から秋にかけて流行したコレラで死んだといわれているが定かではない。
再起不能と知って家族に遺言を書いている。
「…何を申すも金次第、その金というものがないゆえ、われら存じ寄りなんにもいわず、どうとも勝手次第身の納り、よろしく勘考いたさるべく候。」(お金を残してやれないから自分には何をいう資格もない。あと家族は何とかして生きていってくれ。)
翌三日、まだ死なないのでまた書く。
「古歌。
我死なば焼くなうめるな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ
この心持にて手軽く野辺送りいたし申すべし。江戸市中の住居ゆえ近傍に捨てるような野もなきゆえ寺へやり埋めてもらうばかり、必ずみえや飾りは無用なり。
湯灌もいらぬことなれども真似事ばかりさっと水をかけおくべし、手数をかけるはまことに無駄な骨折りゆえ決して御無用なり。
吝嗇は悪し、無駄ははぶくべし。通夜のお人には御馳走いたすべし。」
辞世の歌「東路の筆を残して旅の空 西のお国の名どころを見ん」(西方浄土の名所を見てまわりたい)
こんなにいろいろ気を使いながら三日間生きて、9月6日の朝に死んだ。享年62才だった。
(人間臨終図巻/徳間文庫・ブリタニカ国際大百科事典より引用)
<映画俳優> いちかわらいぞう
1931~1969年。京都に生まれる。
眠狂四郎役で有名、他に「炎上」「破戒」などに出演し、多くのファンをもつ映画俳優であったが、昭和43年5月直腸ガンの手術を受ける。その後また眠狂四郎役で撮影に入ったが、翌年7月死去する。
戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」
墓所は<東京都大田区の池上本門寺>
スターらしく、病んだ顔は見られたくないといって面会は謝絶、遺言により、顔に白布をかけたまま火葬場に運ばれたという。
(人間臨終図巻/徳間文庫より引用)