■教祖 ムハンマド(マホメット:西暦570年誕生)
■成立 西暦614年
■聖地 エルサレム、ムハンマドの出生地「メッカ」
■聖典 コーラン(旧約聖書、新約聖書も補典的に取りいれている)
「まことに私たちはアラーのもの、かれに私たちは帰るのだ」(コーラン第二章雄牛章156)
「地上にあるよろずのものは消滅する。だが永遠に変わらぬものは、尊厳と栄誉に満ちた汝の主の慈顔である」(コーラン第55仁慈者章26-27)
「わたしはアラーのほかに神なきことを証言します。またわたしはムハンマドがアラーの使者なることを証言します」
●アラーとムハンマドとコーランの関係は、神≧イエス・キリスト(神の子)≧聖書あるいは仏陀≧釈迦(仏陀になった、または仏陀の化身)≧仏典といった関係ではなく、アラー=コーランです。
●ムスリム(アラーの教えに身をゆだねた人)はコーランの言葉をアラー直々の言葉だと信じています。神自らがアラビア語で語り、ムハンマドはそれを人々に伝えたにすぎません。神と人間の仲介者はムハンマドではなく、コーランです。ムハンマドがその死後も教義的な意味で神格化されませんでした。ムハンマドにはキリストや釈迦のような救済者の役割はありません。救世主は神アッラーです。それほど、ムスリムにとってコーランは神聖視されています。
●また、イスラム教からみたイエスはキリスト(メシア/救世主)でもなければ、神の子でもありません。ムハンマドとおなじ偉大な預言者の一人として尊敬します。イエスの預言は不完全ですが、ムハンマドの預言は、完全な言葉で神の意志を啓示し、最後の預言者となります。
神がかつて世界とその一切の存在者を創造し、人間も神の被造者であり、神の大地の食物によって養われている。神の慈悲と力によって生きている人間は神に帰依することが本来の姿です。しかし人間は、この真理を知りうる被造者でありながら、それを忘れ、アラブ人は先祖代々の生き方を模範とし、部族の偶像神を信じている。コーランは、その生き方を真理に背いた生き方、罪だと指摘しました。人間が真理に背いた罪人としていきていたから、神はムハンマドを使わし、真理を伝えたのです。
そして、この罪の自覚が悔い改めであり、信仰なのです。
イスラム教にとって、現世は将来いつか終末になり、現世にあるものは何一つ永続せずむなしいものです。しかし、来世は天国と地獄とからなる永遠の世界がまっています。コーランでは、終末の日に各人は神の裁きをうけ、信仰者となった人はみどりにかこまれ、清水がこんこんとわき流れる天国へ、不信仰者は劫火が永劫に燃え続ける地獄へいくと告げています。
この世はかりそめで、短い現世よりも、はるかに重要なのは来世です。しかし、それが直ちに現世否定、出家型の宗教にならないのがイスラム教です。むなしい現世の執着をすてて、来世の救済にそなえるために現世は重視されます。
●来世は単なる個人の死後の世界ではありません。終末はいつか突然きます。その日は、大地は裂け、天の星は落ち、海は沸騰(ふっとう)します。現在の秩序が一切崩壊する天変地異がおきるのです。そして、人は裁きの場にひきだされ、死んだ人もすべて元の身体でよみがえり、裁きを受けなければなりません。
●裁きは、一人ずつ神の前に呼びだされます。そこで現世での行いを記録した帳簿を見せられ、尋問(じんもん)を受けます。現世でのすべての生き方が、その人の究極の救済を左右するのです。
●悔い改め真のムスリム(アラーの教えに身をゆだねた人)となったものは、もはや死を恐れなくなります。恐れるのは、死よりも、まだ充分に悔い改めないうちに死が訪れることです。若いときから死の必至を考え、真の教えに従うように努めなければなりません。
●埋葬は、火葬の習慣はありません。むかし「土葬」でしたが、いまはあらかじめ設けていたレンガ造りの墓穴に納めるのが普通です。遺体の頭は必ずメッカの方向に向けて横たえ、その両脇には故人が復活の日に立ち上がれるように、木の枝をつえ代わりにはさむところもあります。
●埋葬の夜、喪家では一晩中灯火をともし、香をたき、それから40日間喪に服して慶事(けいじ)をさけます。
●霊魂は埋葬の次の日に肉体をはなれ、善良な人の霊魂は終末の日まで、定めの場所にとどまり、邪悪な人の霊魂は、終末の日まで牢獄に閉じこめられます。
(参考:死とはなにか/大法輪選書、イスラーム的/日本放送出版協会、世界の諸宗教/晃祥書房、世界の五大宗教入門/主婦と生活社、世界の葬式/新潮選書)