お急ぎの方はこちらから
24時間365日受付
090-8587-2411
「生の始まりに、死が必要なのである」と田沼靖一教授の著書「死の起源 遺伝子から問いかけ」(朝日選書)に書かれています。
それによりますと
「子孫を残す手段として有性生殖の機構を獲得した生物には、死が遺伝子としてプログラムされるようになった。‥(中略)‥新たにできた受精卵が不良であった場合、それを消去する必要があるからである。生命の誕生という大事件は、死によって成立するといっても過言ではない。生の始まりに、死が必要なのである。」と述べられています。
わたしたちは、生があるから死が訪れると思っていたのに「生の始まりに、死が必要である」と正反対の見立てです。
「生のはじまりに、死が必要」というのは、どういうことなのでしょう。
自然界には、遺伝子を傷つける放射線などが存在します。傷ついたり古くなった遺伝子を子孫に遺(のこ)すことはできません。絶滅の恐れがあります。
そこで、傷ついた遺伝子を持つ細胞は、自ら死ぬように設計されたのです(アポトーシス=自死)。
わたしたちヒトの体は、約60兆個の細胞からなり(ワォッ!)、その内、約3000億個の細胞が毎日毎日「自死」して、おなじ数だけの遺伝子がコピーされ新たな細胞に入れ替わっているそうです。(気づきませんけど)
そして、傷ついた遺伝子を消去する「自死」と復元の力がなくなると、わたしたちの体そのものにも、死のスイッチが入ることになります。
死は、生のためにあるのです。死は、いわば生の守り神なのです。その意味では、生と死が交錯する葬儀は、生命の尊厳を確認する場でもあるのです。
地球上に住む生物のなかで「葬儀」を営(いとな)むのは、人間だけのようです。
貧しいひとが多かったころ、冷たくなったひとの躯(むくろ)は、それは明日の我が身であり、人生の不条理と無常をつきつける姿だったことでしょう。
ひとは、すべての精神と魂を総動員させて、その死をみつめました。そして、そこから哲学がうまれ、芸術をそだて、宗教にたどりつきます。
その意味では、死は、人間にとって「文化の母」でもあったのです。死は、生を守り、人間としての、こころを育ててきたのではないでしょうか。
先人たちがしてきたように、わたしたちもまた死に真摯に向きあいたいと思います。
家族葬を終えるたびにフランスの画家・ゴーギャン(1848年〜1903年)の言葉を思い浮かべます。
かれは、西洋文明に絶望して南太平洋のタヒチにわたります。しかし、かれが夢みた楽園は、そこにはありませんでした。絶望したかれは、死を決意して、遺書がわりに下記の大作を描きあげます。
そして、この絵の左上に書き添えたのが、この絵のタイトルにもなった、あの有名な次の言葉です。
我々はどこから来たのか、
我々は何者か、
我々はどこへ行くのか
ゴーギャンは何を思い、だれにむけて、この問いを発したのでしょうか。
かれは当時、急激に発達した近代文明に翻弄(ほんろう)された一人でした。怒りと絶望にもがき苦しんでいました。貧困と病いが追い打ちをかけるように彼を襲い、希望は絶たれ、失意のどん底でキャンバスに筆をいれます。もはや残された安住の地は、死をおいて他にはありません。
かれは、(彼と人類の)こころの鎮(しず)めをこの絵に託したのかもしれません。
しかし、ゴーギャンの問いから、100年以上たちますが、いまだにその答えをしりません。
むしろ、こころの荒廃は、ゴーギャンの時代よりもひどくなっているのかもしれません。そして、葬儀は、儀礼化し形式化して、その力と存在意義を失おうとしているように思えます。
いま一度、葬儀の力を取り戻すことが必要になっているのかもしれません。「家族葬」の鼓動が、高鳴ります。
いま日本では、年間に100万人以上のひとが亡くなられ、その80%以上が、病院で最期をむかえています。しかし、病院は「死に場所」の施設ではありません。死が、家族の手から離れようとしています。
そして、葬儀そのものが、消えようとしています。‥‥‥