家族葬とは、家族が中心になって親族など近親者で故人を偲ぶ葬儀です。
家族葬(かぞくそう)は、しきたりや形式に振り回されることなく、死者を愛慕し、命の尊さを家族で共有し、死とは何か、生とは何かをも考えさせる、心温まる葬儀が、家族葬です。
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心温まる家族葬にするためのヒントやスパイスをご紹介しようと思います。あるお坊さんがよく「ひとは二度死ぬ」と説法されていました。
「ひとは二度死ぬ」とはどういうことでしょう?『おひとりさまの老後』という本のなかに「ひとは死んで、残った者に記憶を残す。・・・そして、その記憶が残るあいだは、死者はそのひとのなかで生きつづける」と著者の上野千鶴子さんはいいます。
それは、その残った者の記憶から死者の記憶が消えると、死者はもう一度死ぬことを意味します。一度目は、肉体との別れ、もう一度は記憶からの別れ。このことをお坊さんは、「ひとは二度死ぬ」と比喩(ひゆ)されました。
なぜ家族葬を選択するのか。先立つひとを偲び、いとおしみ、いつくしみ、その思い出をこころのなかに深く刻みこむためではないでしょうか。心温まる家族葬であれば、たとえ肉体は滅んだとしても、ご家族の記憶の中に、愛する人は生きつづけることができることでしょう。
家族葬のなかで、忘れかけていた記憶がよみがえることがあります。
親は、子供の誕生から成長まで細かく覚えているものです。しかし、子供たちは親の人生をくわしく知りません。また人の記憶は曖昧(あいまい)なものです。ご両親の思い出も、おなじ兄弟姉妹ながら年の差だけずれてくるものです。
家族葬の穏やかな時間のなかで、それぞれの思い出を手がかりに記憶の差をうめることができます。忘れかけていた記憶がよみがえり、知らなかったご両親の人生と愛情の深さを再確認することもあるのです。くわしくは、ブログ「家族葬の風/音の出ないピアノ」をご覧ください。
家族葬をとおして、忘れかけていた故人にまつわる記憶の糸を編(あ)むような作業ができれば、これ以上の供養はありません。
つぎは「家族葬の祈り」についてです。葬儀では、故人のご冥福を祈って合掌や黙祷をささげます。その「祈り」にまつわる不思議な力をご紹介します。
家族葬の風「ある筋ジストロフィーの生涯」に詳しく書いておりますが、ある家族葬での出来事です。
電動車椅子に乗って弔問に来られた少女がいました。彼女もまた筋ジストロフィーの患者さんです。不自由な手で電動車椅子を焼香机のまえまで付け、ゆっくりとぎこちなく焼香炉にお香をくめます。焼香炉から、ゆらゆらと白い煙が立ち上ります。少女はそっと目を閉じ揺れる手をあわせ、祈りをささげました。
そのとき、式場の時間(とき)が止まってしまったのです。参列者のみなさまはその少女の清楚で可憐なしぐさに魅せられ、ピタリと動かなくなってしまいました。
家族葬では聖なる祈りが、その場の景色を変えてしまうことがあるのです。儀礼化、形式化した葬儀にはおよばない家族葬の祈りの力が参列者の心を震わせます。
家族を失えば、さまざまな感情と思いが交差し、絡み合います。しかし、なかなか整理ができないまま時間ばかりが経ってしまいます。
日本ではながらく、死(者)は穢(けが)れとしてみなされ、忌(い)み嫌われてきました。そのためか、死(者)との対応を計りかねているようにも思えます。
女流小説家でもある天台宗の僧侶「瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)」さまが、お姉さまを亡くされたとき、一晩中お姉さまの耳元で楽しかった思い出話をされたそうです。すると、お姉さまがにっこり微笑んだと青空説法でお話しされます。
医学的な信憑(しんぴょう)性は定かではありませんが、死(者)との対応、対話のしかたをうまく教えてくれています。家族葬の作法として、見習いたいものですね。
家族葬では、せめて一晩でも、時間(とき)をとめて静かに故人に語りかける、聖なる祈りをささげてはいかがでしょう。思わぬシグナルが返ってくるかもしれません。
ところで、そもそも、ひとは、なぜ死ぬのでしょう? 家族葬のたびにご遺族の悲しみに誘われて、そんな疑問をいだいてしまいます。
そんなとき、「死は生のためにある」というビックリする本にめぐりあいました。その本によると、驚くことに‥‥