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人間の生き方は、永遠のテーマですが、その人の死にざまをみれば、その人の生きざまをかいま見ることができます。最近の葬式では、形式が優先し、なにやら忙しい儀式のなかで、ゆっくりと故人を偲ぶこともできません。死をみつめることは、生きるとは何かを問いなおしてくれます。著名な先達の死にざまは、あなたの人生の参考になるかもしれません。
 
あ行/か行/さ行/た行/な行/は行/ま行/や行/ら行/わ行/

芥川龍之介渥美清安部公房アリストテレスアル・カポネアンデルセン安藤広重
市川雷蔵一休伊能忠敬エノケンエンゲルス小津安二郎
 
芥川龍之介
  芥川龍之介  あくたがわりゅうのすけ <作家>
 
  1892〜1927年。東京京橋入船町にうまれる。
早くから天才ぶりを発揮。「鼻」「羅生門」「地獄変」「奉教人の死」など日本を代表する名作をのこす。
 
   芥川の母は芥川の生後九ヶ月ころ発狂した。芥川自身も強度の神経衰弱を病んだり、家庭的な問題で悩んでいた。友人の久米正雄には「自分は発狂する前に死ぬ」と語っていたという。
 自殺は2年前から考えていたらしい。昭和2年7月23日の夕方に家族と夕食を共にし、その夜、服毒自殺をした。夫人には「いつもの睡眠薬を飲んだ」といったという。夫人や菊池寛ら友人あてに遺書が4通あった。
 辞世の句は「水涕や 鼻の先だけ 暮れ残る」
(カリスマたちの遺言/東京書房より抜粋)
 
渥美清
渥美清  あつみきよし <寅さん、俳優>
東京生まれ。本名・田所康雄。
山田洋次監督の「男はつらいよ」の寅さん役で一世を風靡。昭和63年には紫綬褒章を受章。
平成8年8月4日没。享年68歳。
 平成6年、肺ガンだとわかるが、闘病の苦痛を周囲にかくしたまま「男はつらいよ」の第47作目を撮影。翌年、遺作となる第48作目の撮影にはいる。
 岡山県津山と、震災後の神戸、奄美大島がロケ地となったが、そのころ渥美には、いつものように笑顔でファンに手を振るだけの気力もない状態だった。腹巻きに隠した抗ガン剤を撮影の合間に飲み、薬の包装は、ほかのスタッフに気づかれないよう、付き人に始末させた。
 平成8年7月末、様態が急変、31日に手術をうけるが、すでにガンの移転はひろがり、手遅れだった。
 8月4日死去。「おれのやせ細った死に顔を他人に見せるな。家族だけで荼毘に付してくれ」という遺言に従って、密葬された。
(カリスマたちの遺言/東京書房より抜粋)
安部公房
安部公房  あべこうぼう <作家>
1924〜1993年。東京滝野川生まれ、東京大学医学部に進学。
昭和25年「赤い繭」で第二回戦後文学賞、翌26年「壁-S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。ノーベル文学賞の候補にも。
 「死が身近にある時代だからこそ、生きることの意味が濃密になっているともいえるでしょう。/大切なのは、生きることと死なないことは、かならずしも同じではないということです。死なないことにこだわるから、核シェルターが出てくる。死なないために相手を抹殺せざるを得なくなる。/こういえば、もっとわかりやすいかな。生きることは、生き延びることではない。両者はまったく違うことです」とインタビューにこたえる。(新潮45S60.1)
 平成4年12月25日に軽い脳出血で倒れる。退院したが、再び悪化し入院したまま亡くなる。
 自宅の応接間に青いマットがひかれ、簡素な祭壇。弔問者はカーネーションを受け取り、柩の前に献花する。約150人の参列者は三々五々あつまり、黙々と花をささげる。なれないことで困惑の表情。前日の通夜までは柩さえ用いなかった。完全な無宗教。
 「故人は形式なものを好まない性格でしたので、このような簡素な葬儀にしました」と娘婿の医師の真能純一さんが出棺の祭、説明した。
(葬送/教養文庫、知識人99人の死に方/角川ソフィア文庫より抜粋)
アリストテレス
アリストテレス  ありすとてれす <学者>
紀元前384〜322年。
プラトンの弟子にしてアレキサンダー大王の師、万学の祖といわれる。
 晩年ギリシャのアテナイを追われ、エウリポス海峡にゆき、海峡の潮流のふしぎな動きが不可解で、
「エウリポスよ、わたしをのみこめ。わたしはお前を理解することができないから」
といって、海峡に投身して死んだといわれる。常人には理解不可能。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)
アル・カポネ
アル・カポネ  ある・かぽね <ギャング>
1899〜1947年。
ナポリから来た移民の子としてニューヨークのスラムに生まれる。1920年からの禁酒時代のアメリカで、闇酒密売の総元締めとなり、シカゴのギャングの帝王となる。
 ギャングのライバルをかたっぱしから殺した。相手と握手してその右手を封じて殺したシェークハンド・マーダー、警官に化けて7人の親分を並ばせ、いっせいに機関銃でなぎたおした「聖ヴァレンタインの大虐殺」など話はつきない。もっとも彼はちゃんとアリバイを作っていた。それでも彼の手で20〜60人を殺し、すくなくとも400件の殺人の指揮をとったといわれる。
 しかし、1931年、33才のとき、脱税で検挙され、懲役11年と巨額の罰金を宣告され、入獄した。模範囚だったが、梅毒が進行。1939年に40才で出所、マイアミの別荘でひっそりと暮らす。
 1947年、卒中につづく肺炎で、家族にみとられて死んだ。死後、彼の弁護士は「カポネは無一文で死んだ」と国税庁に申告した。事実だったようだ。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)
アンデルセン
アンデルセン  あんでるせん <童話作家>
ハンス・クリスチャン・アンデルセン/1805〜1875。
「人魚姫」「おやゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」「マッチ売りの少女」などの世界的な童謡作家。
 デンマークの貧しい靴屋で22才の父と無教養な洗濯女で40ちかい母とのあいだに生まれる。「デンマークのオランウータン」をいわれるぐらい醜男(ぶおとこ)だが、性格は女性的。ついに一生女性から愛されることなく独身でおわる。
 1875年4月2日の70才の誕生日には、国をあげて祝福され、銅像を建てられることもきまった。しかし、病魔におかされていた。肝臓ガンだったといわれる。
 晩年の彼を庇護していたユダヤ人の富商メルキオール家では、手厚く看護した。
 彼はベッドに横たわったままつぶやいた。
 「なんとわたしは幸福なのだろう。なんとこの世は美しいのだろう。人生はかくも美しい。わたしはまるで、苦しみもない遠い国へ旅たってゆくかのようだ」
 8月4日に息をひきとった。葬儀は国葬をもっておこなわれた。王族から乞食、老人からこどもまで参列し、広大な聖母教会には弔問者の十分の一もはいれなかった。
(人間臨終図巻:山田風太郎/徳間文庫より抜粋)
  安藤広重  あんどうひろしげ <浮世絵絵師>
 
  1797〜1858年。江戸八代州河岸の定火消し屋敷で生まれる。
役者絵、美人画、武者絵なども描いたが、特に風景画にすぐれこの分野を大成した。「東海道五十三次」は代表作。
 
   安政5年夏から秋にかけて流行したコレラで死んだといわれているが定かではない。
 再起不能と知って家族に遺言を書いている。
「…何を申すも金次第、その金というものがないゆえ、われら存じ寄りなんにもいわず、どうとも勝手次第身の納り、よろしく勘考いたさるべく候。」(お金を残してやれないから自分には何をいう資格もない。あと家族は何とかして生きていってくれ。)
 翌三日、まだ死なないのでまた書く。
「古歌。
 我死なば焼くなうめるな野に捨てて
  飢えたる犬の腹をこやせよ
 この心持にて手軽く野辺送りいたし申すべし。江戸市中の住居ゆえ近傍に捨てるような野もなきゆえ寺へやり埋めてもらうばかり、必ずみえや飾りは無用なり。
 湯灌もいらぬことなれども真似事ばかりさっと水をかけおくべし、手数をかけるはまことに無駄な骨折りゆえ決して御無用なり。
 吝嗇は悪し、無駄ははぶくべし。通夜のお人には御馳走いたすべし。
 東路の筆を残して旅の空
  西のお国の名どころを見ん」
こんなにいろいろ気を使いながら三日間生きて、9月6日の朝に死んだ。
(人間臨終図巻/徳間文庫・ブリタニカ国際大百科事典より引用)
 
 
市川雷蔵  いちかわらいぞう <映画俳優>
1931〜1969年。京都に生まれる。
眠狂四郎役で有名、他に「炎上」「破戒」などに出演し、多くのファンをもつ映画俳優であったが、昭和43年5月直腸ガンの手術を受ける。その後また眠狂四郎役で撮影に入ったが、翌年7月死去する。
スターらしく、病んだ顔は見られたくないといって面会は謝絶、遺言により、顔に白布をかけたまま火葬場に運ばれたという。
(人間臨終図巻/徳間文庫より引用)
一休
一休  いっきゅう <禅僧>
1394〜1481年。京都に生まれる。
 室町時代の禅僧で臨済宗大徳寺派で名は宗純。後小松天皇の皇子と伝えられる。詩集「狂雲集」や詩文集「自戒集」「骸骨」などを残し、その奇才と風狂は江戸時代の「一休咄」などに描かれた。堕落した官寺五山を罵ったが、自らは酒し淫房に出入りし、女犯肉食、風狂のままに生きた。87歳で高熱を発し死んだ。その際「死にとうない」といって、すわったままねむるように死んだという。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋 ブリタニカ国際大百科事典参照参照)
伊能忠敬
伊能忠敬  いのうただたか <名主、地図製作>
1745〜1818年。上総国山辺郡小關村に生まれる。
 1745〜1818年。上総国山辺郡小關村に生まれる。
 下総佐原村の名主を49歳で隠居し、50歳で江戸に出て西洋暦学、測量術を学ぶ。
彼は頑健な体格ではなく、しかも痔や痰咳などの持病があったが、憑かれたように55歳から71歳まで17年間にわたり3万5千キロを歩き、日本で初めての正確な地図「大日本沿海輿地全図」を作成する。
 そして文政元年、江戸八丁堀亀島町の屋敷で大往生をとげた。遺言はただ「恩師高橋先生のお墓のそばに葬ってくれ」ということだけであった。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋)
エノケン(榎本健一)  えのけん(えのもとけんいち) <喜劇俳優>
1904〜1970年。
日本の喜劇王といわれ、孫悟空役は有名。
 昭和27年エノケン劇団解散の時座員の退職金を作るため地方巡業に出かけ、特発脱疽で右足膝から下の切断を宣告される。皮肉にも以前舞台で孫悟空を演じたときに如意棒に当たったことが原因だという。その時はつまさきだけを切断したが、10年後再発し大腿部から切断するに至った。彼は最初の時に首吊りとガス自殺を、再発の時には、首吊り自殺をはかっている。しかし、いずれもみごとにカムバックをはたした。66歳の時に重い肝硬変で入院し、肺炎を併発し亡くなった。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋)
エンゲルス
エンゲルス  えんげるす <社会哲学者>
フリードリッヒ・エンゲルス
1820〜1895年。ドイツのバルメンに生まれる。
 49歳の時取締役であった織物会社を辞め、「国際労働者教会」の書記として活躍をする。マルクスの最も親しい協力者で、弁証法的唯物論が近代科学の理論と実践に絶対不可欠であることの証明を試み、近代思想に対して貢献した。「空想から科学への社会主義の発展」「家族・私有財産および国家の起源」などを著す。マルクスの死後「資本論」の編集刊行をする。しかし喉頭ガンのためロンドンで死去する。遺言により、遺体は火葬にし、灰は友人達によりドーバーの波に投ぜられた。墓はない。
(人間臨終図巻/徳間文庫より抜粋 ブリタニカ国際大百科事典参照)
小津案二郎
小津安二郎  おづやすじろう <映画監督>
1903〜1963年。東京深川に生まれる。
 「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従う。」と言った彼は代表作「東京物語」「晩春」「秋刀魚の味」など生涯に54本の映画を撮った。1年間の小学校の代用教員や2年間のシンガポールでの軍報道部映画班員を経験している。黒澤明監督に比べて世界での評価が出るまでには随分時間が経ったが、今では世界映画史上に輝く日本人監督としてその名が知られている。還暦の年の誕生日12月12日に悪性腫瘍で死亡する。北鎌倉の円覚寺の墓にはただ「無」ときざまれている。
「六十歳 某月某日酔余門巷に窮死するか」。死の三年半前戯れにそう書いた。
(百人の20世紀/朝日新聞社より抜粋)
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